御殿場高原より 55 ベスターさんと英語

ベスターさんと英語

 大学院生のとき,ハーバード大の大学院出の教師から,当時アメリカで盛んであった「ニュークイリチシズム(新批評)」の手ほどきを受けて,「言語の表層情報の解読」に関心を持ち,さらに,島田謹二氏から,フランス伝統のエクスプリカシオン・ド・テキスト(explication de texte)(精読)に基づく「フランス派英文学研究方法論」を習ってから,「言語の等価関係」に興味を覚えて,一つの表層表現を解読して別の言語に等価変換(翻訳)することを追求したいと思いました.これは,たぶん,中学一年の最初の英語の授業でI am a boy. You are a girl.を「僕は少年です.あなたは少女です」と訳すのはおかしいと思ったことが消えないで残っていたからでしょう.日本語で言わないようなことを英語では言うのかという素朴な疑問から始まって,語彙や文構造は違っても「人類の言葉の使い方」にはあまり差異はないのではないか.作者の意図など考えないで,表層の表現だけに神経を集中させて精読してみたいと思いました.このような読みにまともに付き合ってくれたのがジョン・ベスター氏でした.ベスタ―さんは大学の同僚であったベスタ―夫人の旦那さんで,日本文学の翻訳家でした.ベスタ―夫人に紹介を頼んで会った時には東大の英文科で「日英翻訳」と「イギリスロマン主義文学」を教え始めていました.私たちは言語素養的に共通していました.ベスタ―さんは英語・日本語・フランス語・ラテン語で,私は日本語・英語・フランス語・ラテン語でした.私はベスターさんと「等価変換」(翻訳)の技法の追求をするために新宿のワンルームマンションに部屋を借りて録音器具や多数の辞書やコーヒー沸かしなどを準備しました.そして,等価変換の材料を探しているしている時,ワイフが読んでいた雑誌『モア』(1978年12月号)に「ルーズベルト島575番地」というタイトルの記事を見つけました.次はその一部です.

 「わたしは,アメリカで生まれ,アメリカの食べ物で育ち,アメリカ語で話してきた.学校では成績もよくて,級長もつとめたけれど,それでもみんなはわたしをジューと呼ぶの.どんなに努力しても,けっしてみんなはわたしを仲間にしてくれなかった.
 その上,わたしは三女でしょ.父は男の子をすごく欲しがっていたから,わたしが生まれたときは,一言,"She is a girl."といったそうよ.この一言で,わたしは両親にも見放されてしまったようなもの.わたしは医者になりたかったけど,父は,女はどうせ嫁にいくんだから,prettyならばいい,といって十分な教育をしてくれなかったわ.
 わたしは,ジューに生まれ,女に生まれたので,二重の差別に悩みつづけてきたのよ.」
 カレンは「わたしはずっと不幸だった」という.

 中程に"She is a girl."があります.これは「彼女は女の子です」ではありません.文脈から,これを日本語に訳すなら「奴は女(の子)だ」と父親は言い捨てたのだろうと思います.ベスターさんはイギリスなら"It's a girl."(女(の子)だ)でしょうね,と言いました.ここから,私たちの日英両語の検討が始まりました.
 話はそのまま代名詞に飛びました.特に,「人称代名詞」が難しいのですが,使うときの感触は日本語と同じではないかと感じていたので,それを確かめたかったのです.たとえば,お母さんが小さな娘に果物かごの中のものを指さして「リンゴ,ミカン,バナナ,・・・」と教えたとします.いくど教えても娘は覚えません.お母さんが台所で仕事をしていると,娘はまたリンゴを指さして「これは?」と聞くと,お母さんは「それはリンゴよ(お馬鹿さんね)!」("It's an apple.)というように使います.この言葉の強さは英語でも同じと感じていました.先生が教壇から“What is this?”とペンを持って生徒達に尋ねているとき,トムは後ろの席のスーザンとおしゃべりをしています.先生は「トム,これなんだ,言ってごらん」と言う.トムは先生の方を向いて「それはペンにきまってらあ(It's a pen.)」と答えるでしょう.普通なら"A pen."(ペンです)です.したがって,女王に"What flower is this?"と尋ねられたとき“It's a rose, your Majesty.”(バラに決まってます,女王陛下)と答えるのは実に失礼なのです.
 また,日本語には「冠詞」や「複数形」がないので「名詞」の対応もむずかしい.たとえば,英和辞典で like を引くと,最初の意味として「<人が><人・物・事>が好きである」が出ています.例文として I like comics[*a comic]. 私は漫画が好きです.(◆一般的な好みをいう場合,目的語は複数形が普通.・・・)と説明が付記されています.では,文法的に正しい I like a comic. はどいう場面で使うか.ボランティアのお兄さんが絵本や漫画や物語本などを並べて「どれにする(Which do you like?)」と尋ねた時などにはI like a comic.(漫画がいい)と答えるのです.「私は漫画が好きです」という日本語に相当しないというだけのことです.言葉は辞書には書ききれないほど微妙なのです.
 言葉は非常に精密に状況を描出します.「君・あなた・お前・あんた・てめえ・貴様・二者・ユウ」聞いたり読んだりしただけで,瞬時にその使用場面や人物が浮かんできます.言語の等価変換というのは,別の言語の表層表現で元の言語が描出するのと同じイメージが浮かぶようにすることです.これは大変面白い作業と私には思えました.
 たとえば,川端康成の『雪国』は,典型的な日本文で始まります.

 国境の長いトンネルを抜けると,雪国であった.

 簡潔で緩みなくきっちりイメージを喚起させるいい日本文です.この文を読んで日本人ならトンネルを抜けた瞬間,そこは雪景色であったとイメージします.読むときに「抜ける」手段はほとんど意識していません.歩いて抜けたのか,自転車か,自動車か,汽車か,などにはまったく意識の中に入っていないのです.「国境の長いトンネル・・・」とあるから,心のどこかで「汽車」を意識しています.そのまま読み進んで,

 夜の底が白くなった.信号所に汽車が止まった.

で初めて,最初の文は

 (汽車が)国境の長いトンネルを抜けると,(そこは)雪国であった.

であり,主人公は汽車に乗っているのだとわかるのですが,読者は自分が体験しているように感じています.主語なしのこの相互流通性・曖昧さが日本語のいいところです.
 ところが,この文を翻訳するとなると,日本語の読者は意識している自分あるいは汽車が表層に現れていないので,そのままでは英語に訳すことができません.それで,英語的に主語を補うと

 (私の乗っている汽車が)国境の長いトンネルを抜けると,(そこは)雪国であった.

となります.この小説の英訳者 E. サイデンステッカーは,まさにその通りに主語を補って

 The train came out of the long tunnel into the snow country.

と締りのいい無駄のないいい英語に訳しています.trainについているtheに「私の乗っている」という意味が含まれています.また,a tunnelとかa snowy countryではなくtheを使って現実感を出しています.
 E. サイデンステッカーの翻訳の先頭の名詞に付いている定冠詞 (The train) ですが,日本語でも「国境の・・・」には現実感があります.この定冠詞は典型的な「小説(の書き出し)形式」で,読者に了解を要請して,次の展開を期待させたり,現実感を伝えたりする使い方です.日本語にもありますが,英語の語り口にも,いくつかの形式があります.
 言語情報は「動詞とそれを支える一つ以上の名詞」でイメージを喚起させて伝えます.日本語から英語に翻訳する場合,一番厄介なのが名詞の扱いです.日本語の名詞には冠詞が隠れているので,不定冠詞を付けるか,定冠詞をつけるか,それとも無冠詞にするか,それと複数にするか単数にするか考えなければなりません.
 英作文を習い始めた頃,英語では,名詞を最初に使うときには不定冠詞をつけ,次に定冠詞をつけるか「定冠詞+名詞」に相当する人称代名詞を使うのだと教えられました.たとえば,イギリスの詩人James Kirkup はアラビアンナイトの一挿話を次のように書き出しています.

There was once a prosperous merchant who had a beautiful wife.(むかし,お金持ちの商人がいて,美しい妻を持っていました)

 どの名詞も不定冠詞を使っています.これは「お金持ちの商人をイメージしてください」それに「奥さんが何人かいてその中に美しい奥さんがいたとイメージしてください」という要請です.次に続く文では,同じ名詞を繰り返さないで「人称代名詞」を使っています.

He loved her so much, so he could hardly bear to be parted from her more than a day.(その商人はその妻をとても愛していたので,離れているなんて,一日がやっとでした)

 これは「(あなたと了解し合った)彼・彼女はね・・・なんだよ」と話を続けるためなのです.
 しかし,実際には「定冠詞つきの名詞」から始まる物語もたくさんあります.次の文は,現代アメリカの作家 Toni Morrison の小説 The Bluest Eye の冒頭の部分です.

Here is the house. It is green and white. It has a red door. It is very pretty. Here is the family. Mother, Father, Dick, and Jane live in the green-and-white house. They are very happy.(家があるのです.緑と白の家です.赤いドアがついています.とてもきれいです.家族がいます.母,父,ディック,ジェーンがその緑と白の家に住んでいます.みんなとても幸せです.)

 これらはどういうことでしょうか.

A.お伽噺形式
 「お伽噺の形式」は日本語も英語も同じです.

 昔,あるところに,おじいさんとおばあさんが住んでいました.ある日,おじいさんは山に芝刈りに,おばあさんは川に洗濯にいきました.・・・(とイメージしてください)

と語られると,日本人は「お伽噺」と認識します.同様に,英語圏の人たちは

Once there lived an old man and his wife. One day, the old man went into the forest to gather firewood while his wife went down to the river to do the washing. She happened to see a big Momo (peach in Japanese) floating in the stream. She lifted it out of the water and took it home. She had just started to cut it open, when suddenly a baby popped out. They named him Momo-taro, because he sprouted from a momo.

のような文に触れると「お伽噺だ!」と思うのです.
 英語のお伽噺の典型的な語り口の特徴は,最初の文の名詞は不定冠詞にするということです.ですから,名詞に不定冠詞しか付いていない文で始まる次の現代アメリカの絵本は「お伽噺」です.

  On a small island, near a large harbor, there once lived a fisherman's little daughter (named Samantha, but always called Sam),...
 小さな島が,大きな港の近くにあって,そこに昔,漁師の小さな娘が住んでいて,名前はサマンサ,でも,いつもサムと呼ばれていました,・・・(とイメージしてください)

 英語のお伽噺形式は,「不定冠詞+可算名詞の単数」か「無冠詞+可算名詞の複数」か「不可算名詞」か「指示代名詞+名詞」を「時(たとえばonce)」とともに提示し,次に「時」と「相互了解(the+名詞)の場所」を伴って用いるのが普通です.
 これは情報的には,最初に,不定冠詞・無冠詞の名詞で「未了解情報」を提示して話題とし,次に,それに関わる物・物・事には定冠詞を付けて「読者と了解した人・物・事」とするのです.つまり,不定冠詞・無冠詞は「未了解情報」(ある意味では「虚」)の印であり,定冠詞(あるいはthe+名詞の代わりの人称代名詞)は「了解情報」(ある意味では「実」)の印ということになるのです.
 幼児向けの本ではこの二点が巧みに使われます.Verginia Lee Burtonは『小さなお家』の書名をThe Little Houseとして「現実のお家のお話ですよ」と言いながら,物語をOnce upon a time there was a Little House way out in the country.(「なんでもいいから小さなお家を頭に描いて!」)と進めます.Sel Silversteinは『おおきな木』の書名をThe Giving Treeとして「現実のお話だぜ」と言い,Once there was a tree and she love a little boy....と話を進めます.

B.小説・エッセイの形式(「実」の形式)読者に了解を要請する形式
 日本の物語の語り口は『伊勢物語』(平安末期に統合された歌物語)の

 むかし,男ありけり・・・

で始まります.この語り口に触れると,日本人は現実感を感知します.「むかし,(実際に)男がいたんだと」と頭の中で処理します.
 英語では,最初の一文から「定冠詞+名詞」(あるいは人称代名詞、固有名詞)で話題を提示すると,読者は現実感を感知します.小説や随筆によく使われる形式で,「(いずれわかりますから)人がいた・物・事があったと了解してください」と読者に「相互了解の要請」をするものです.子供の絵本などでも使われるのですが,読者を安心させて,話の展開に期待させるのです.この書き出しでは「時」や「相互了解の場所」は必ずしも必要ありません.いくつか英文を出してみます.

 The young man was clean shaven and neatly dressed. It was early Monday morning and he got on the subway.(若い男は,さっぱり髭を剃って,きちんと身なりを整えていた.月曜日の朝である.そして,若者は地下鉄に乗った.) (Robert Fox: A Fable)

 In the morning the man and woman were sitting on his front steps. They sat all day. They would not move.(その朝,男と女が彼の家の玄関の階段に腰を下ろしていた.ふたりは一日じゅうそこに坐っていた.ふたりは動こうとしなかった.)(H. E. Francis: Sitting)

 One day when Pooh Bear had nothing else to do, he thought he would do something, so he went round to Piglet's house to see what Piglet was doing.
 ある日、プーさんは他に何もすることがないので、何かしなくちゃと考えて、子ブタの家に、何をしているか見にでかけました。( A.A. Milne: The Pooh Story Book)
 
 読者に「相互了解の要請」をする語り口は,もちろん日本語にもあります.いくつか日本の小説を出してみます.

 龍哉が強く英子に魅かれたのは,彼が拳闘に魅かれる気持ちと同じようなものがあった.(石原慎太郎『太陽の季節』)
 志乃をつれて,深川へいった.識りあって,まだまもないころのことである.(三浦哲郎『忍ぶ川』)
 どこから話したらいいかな,と暫く考えてから彼はゆっくりと語りはじめた.(宇野千代『色ざんげ』)

 書棚から探した小説の冒頭の文章です.「龍哉」も「志乃」も「彼」も唐突に提示されていて,読者との間にはまだ「了解」が成り立っていません.しかし,作家は「いずれわかってくるから,今はわかっていることにして欲しい」つまり「相互了解の要請」をしているのです.
 私たちはこの語り口に慣れているので,たとえば,

 犬が迷いこんできた.餌が欲しくて人に媚びてくるので、捨てられたばかりだとわかった.(立松和平『野良犬,野良猫』)

といういうな日本文を読んで,何ら違和感を感じません.
 この違和感のなさ,つまり,安定感は,日本語では,相互に了解している場合には,「あれ・それ・家の」などを付けないと知っているからです.たとえば,父親が帰宅して「子供たちは?」といったら,それは母親と了解しあっている「うちの子供たち」のことです.ですから「犬が迷いこんできた.・・・」の「犬」は「実際の・了解済みの犬」ということになります.したがって,それを

A dog came wandering in from nowhere. It made up to...

と不定冠詞を付けて訳すと.「犬という生き物がいてその一匹が迷い込んできた(,とイメージしてください).」というお伽噺の形式になってしまいます.最初から定冠詞を使てThe dog...とすること,つまり,「相互了解の要請」という形式を使うことによって,日本文に含まれている現実感を含ませ,しかも,読者に何かが続いて起きるかと期待させる小説・随筆の書き出しとなるのです.いくつか例を出して見ましょう.

 桜の花はもう散りかかっていた.
 The cherry blossoms were already falling.

  定冠詞をつけることよって「私が今見ていた桜の花は(そのとき)・・・」という現実感が入ります.

Cherry blossoms were already falling.

としたら,日本語に変えると

「桜の花というものがあり,それがもう散りかけていた」

という感じになります,つまり,cherry blossoms と無冠詞にすると「桜の花というものがある」という客観的な事実をまず知らせておいて,次に それらがwere already falling と伝えることになるのです.
 このような「名詞と冠詞」の文脈情報はまだ十分に整理・分類されていないので,日本の普通の英語学習者は(また,機械翻訳も)当然のように,

 犬が迷いこんできた.

を英語に訳すことを求めると,

 A dog strayed into my house.

と始めます.普通の英米人は,この文には違和感(何か足りない)を感じて,

 One evening a dog strayed into my house.

と「時の副詞」を加えたがります.それは文の表層に「時を表すもの」がないからです.日本の学校では,動詞の活用を do-did-done のように覚えさせますが,アメリカやイギリスでは,子供たちに動詞の活用を I do it everyday. I did it yesterday. I have done it many times. のように,「時の副詞」を付けて歌うよう覚えさせます.それで,時の副詞のない文は不完全に感じる素地ができているからです.しかし,これでは英語としては文法的にも情報感覚的にも完全になりますが,時の副詞のない元の日本文とは対応しません.
 時の副詞のない日本文を,時の副詞なしでも違和感を感じない英文に変えるにはどのようにすればよいか.日本語と英語の対応関係をよく考えると,先ほどの「定冠詞+名詞」を使って,

 The dog came wandering in from nowhere. It made up to people in the hope of getting food, which suggested that it had only just lost its owner.

と訳文を創ることが出来ます.E. サイデンステッカーの『雪国』の冒頭の訳は,この定冠詞の使い方と同じです.
 ところで,このように,日本語と英語の対応関係をよく考えて変換しても,表層的に主語を立てなくても動詞を使うことのできる日本文

 国境の長いトンネルを抜けると,雪国であった.

と,動詞を使うには主語を必要とする英文

 The train came out of the long tunnel into the snow country.

とは決定的に異なります.しかし,これは言語の固有性の壁は高いということで,上の E.サイデンステッカーの訳文は「可能な限りの究極的な日英両語の等価関係」を求めた結果であるように思われます.
 したがって,表層に主語(や目的語)を明示しなくても動詞を使うことのできる日本語(「好きです」)と,主語(や目的語)を明示しければならない英語(I love you.)とを等価関係にするには,E. サイデンステッカーやベスタ―さんくらいの考察と工夫を検討して,日英両語の表層から芯を対応させることを究極の目標とした「等価変換(翻訳)の技法」を学び,現在あるような初級英語文法や初級英文解釈法だけでなく,「日英等価変換」を念頭に置いた「日英等価変換文法」のようなものを作らなければならないなと思って,ほぼ20年ベスタ―さんと作業したものを整理しているのですが,できれば,死ぬ前に,せめて「資料」になるようにまとめておきたいなと思っています.89歳,ちょっと遅すぎたかな.

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