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【第29回】『ランビエの絞輪』〈管理栄養士・宇田川 舞が解く栄養ミステリー〉
第29回『ランビエの絞輪』第二章 アポトーシス 15
小説を読み終えた舞は、手持ち無沙汰になった。屋外時計を見ると、二時を周っている。
店内は、人が疎らになってきた。だが、テラス席は、ティー・タイム利用の客が入り始めていた。舞は、テーブル席のメニューを開いた。ティー・タイムのメニューには、イギリスの伝統菓子が並ぶ。中でもアップルパイが人気で、季節によって林檎の種類が違うらしい。紅茶の種類も豊富だった。舞が、想像を巡らしていると、背後から声が掛かった。
「やっぱりメニューを見ている時、楽しそうだね」
菫は、いつの間にか、私服に着替えていた。黒いパンツの上に、ロイヤル・ブルーの綿ニットを着ている。
「個室に行きましょう。私は、賄いランチをいただくから」
菫は、フランス窓から店内に入った。厨房の脇を通ると、デシャップ・カウンターの奥から、菫の夫、麻生周三の姿が見えた。舞を見て、笑顔で右手を上げている。
菫の後について入った部屋は、ソファで食事ができる個室だった。
「アップルパイだったら食べられる? 今月の林檎の品種は、宍粟市の原田農園さんの『つがる』よ」
「細目にカットしてもらってください。それと紅茶はキームンで」
菫は、内線で注文を告げると、舞の顔を見た。舞は、食欲がない理由を尋ねられる前に、先に口を開いた。
「林檎の品種や農家さんまで、記憶しているのですね」
「最近はタブレット端末を導入したから、注文も楽になったけど。数年前までは、お客様の注文を瞬時に覚えていたのよ。だから記憶力が、鍛えられたの」
菫は確かに、記憶力が優れている。人から聴いた話の内容も、曖昧な箇所が少ない。
「仕入れルートまで、菫伯母ちゃんが管理しているの?」
「仕入れ担当は主人だけど、帳簿付けは私がやっているから、だいたい覚えているわよ」
「灘の銘酒も扱っていますよね?」
「灘のお酒は、自慢じゃないけど、詳しいよ~」
菫が静かに笑い声を立てていると、ウェイターが賄いランチとアップルパイを運んできた。ウェイターが立ち去り、ドアが閉まるのを見届けると、舞は再び口を開いた。
「さっき、迎賓館の前を通って来たと、言ったでしょう。あそこ、元は白姫酒造の邸宅だったそうですね。このレストラン、白姫のお酒も入れていますよね?」
菫は、賄いのローストビーフ丼の中央に、箸で窪みを作った。生卵の黄身だけを、その窪みに流し入れた。
「灘の銘酒は、一括して酒造組合に頼んでいるわ。一軒ずつ頼んでいたら大変だから」
「あの迎賓館って、今は白嶋酒造の運営だけど、元は白姫酒造の本家でしょう。元の住人は、どこに、いらっしゃるのでしょうね?」
菫は、ご飯をローストビーフで包むと頬張った。嬉しそうに咀嚼して飲み込むと、口を開いた。
「確か、東灘で亡くなった昭和の文豪がいたでしょう。その日本家屋を買い取って、そこに住んでいると思うよ。文豪の直筆原稿や身の回りの品々も譲り受けているから、結構な資産価値になるみたいね」
「オークションに出したら、凄い値がつきそうですね」と、舞は合の手を入れた。
菫は頷くと、丼をがっつくように箸を進めた。かなり空腹だったのだろう。一般に下品と思える仕草も、菫がすると優雅に見える。舞が矢継ぎ早に質問すると、菫が食事を楽しめない。舞もアップルパイを一口、頬張った。甘酸っぱい酸味が、口に広がった。
菫が賄いランチを食べ終えると、タイミングよくウェイターが入って来た。菫用の食後のコーヒーとアップルパイが、運ばれてきた。
ウェイターが出て行くと、菫が舞の顔を見る。
「しばらく、誰も入ってこないから、ゆっくり話できるよ」
菫はアップルパイを口に入れると、頬を緩ませた。舞は、深刻な表情にならないよう、口角を上げた。
「神山町の物騒な噂話って、怖いお話なのですか?」
「先週、夙川のベンチで身元不明の男性の遺体が見つかったでしょう。どうやら浮浪者らしいね」
舞は、知っている事実を悟られないよう、相槌を打つ。
「神山町辺りでね、急にお巡りさんが、立ち寄るようになったのよ。ここはレストランだから、前から近所の交番の人が立ち寄っていたけどね。お屋敷だと言っても、一般民家だし、急に変でしょう?」
「それとなく、聞き込み調査をしているのでしょうね。まだニュースにも、新聞にも、その後の報道は、されていませんよね」
「確実な事実が判明しないのでしょう。迎賓館のガードマンから、どこまで聞いたの?」
と菫がコーヒーを飲みながら、舞の眼を見る。
「白嶋の本家が風見鶏のある洋館だそうですね。その前に、長い階段があるでしょ。たまに人が立ち止まって、建物を見ているそうです。でも最近は、お巡りさんに注意されるそうですね」
「見事な洋館だから、思わず立ち止まって見上げるわよね。他には?」
「最近、明け方に犬が一斉に吠えていたとか、前回の満月が大きくて赤かったとか。阪神淡路大震災の前日も、似たような現象があったとか。そんなところですね」
菫がコーヒーを啜りながら、静かに笑う。
「私が聴いた内容の一部と同じね。もうちょっと詳しい情報もあってねぇ。私なりに、噂話を整理してみたのよ」
「そんなに、沢山の人が話していたのですか?」と言うと、舞は前のめりの姿勢になった。
「平日のティー・タイムは、暇なご婦人たちの溜り場だからね」
舞は、何度も首肯すると、先を促した。菫が、タブレット端末のカレンダーを開いた。
「二週間ぐらい前の金曜日だから、九月十七日ね。年輩の女性がね、『飼い犬が明け方に、異常な吠え方をした。だから睡眠不足だ』って話していたの。そうしたら、違う女性が、『うちの隣のお宅も、同じことを言っていたわ』って言い出してね。その日は、不審者でも、ウロついていたのだろうって話で終わったのよ」
菫が一呼吸を置くと、続けた。
「月曜日は定休日だから、先週の火曜日ね。違うお客様が、『ここ数日、明け方に犬が一斉に吠えるみたいですね』って教えてくれたの。『土日もずっとだったのですか?』って聞き返したのよ」
舞は頷きながら、午前中に佐伯邸の階段前で聞いた、小型犬の吠声を思い返した。菫の話が続く。
「先週の水曜日には、別のお客様が『昨日の満月、赤くて大きかったですね』って話し出してね。見た人が『私も』と言い出すし。また地震でも来るのかしら? って、ご婦人たちが不安がっていたわ」
舞は、菫の話を黙って聞きながら、犬の吠声に関する論文を懸命に思い返していた。
「結局、地震はなかったけど、木曜日に浮浪者の遺体が見つかったでしょう。その翌日にあたる金曜日以降からは、お客様から犬の吠声の話は聴かないようになったの。すると、今度は、警察の聞き込みの噂でしょう。タイミングが良すぎる、と思っているのよね」
菫は、タブレット端末のカレンダーを見ながら、人差し指で何やら確かめている。舞は、紅茶を飲むと口を開いた。
「菫伯母ちゃんは、犯人がこの辺りをうろついていると、考えているのね?」
「犬が吠えないようになったから、もう、この辺りにはいないと思うわ。だけど、前はうろついていたのかもね」
「不審者を見かけたなどの噂話は、なかったのですか?」
「ないのよねぇ。事件とは関係ないけど、幽霊話なら聴いたわよ」
菫が、コーヒー・ポットに手を伸ばす。
「裏山の農家の男性がね、明け方に幽霊を見たかも、って、笑いながら話すのよ」
舞は、佐伯桐花が明け方に、彷徨う姿を想像した。
「市場からの帰り道、軽トラの運転中にね。いつもは県道を通るけど、迎賓館のレストランに野菜を届けるから、細い坂道を通ったそうよ。そうしたら、髪の長い白い衣装を着た女性が遠目に見えたらしいよ」
舞は、思わず前のめりになって聞き入った。菫が舞を見て笑う。
「笑い話なのに、真剣に聞かないでよ。この辺、県道の《夫婦岩》とか、奥の神社の《越木岩》とか、幽霊話の名所でもあるでしょう」
舞は真顔のまま、「夢遊病者のケースもありうるなぁ、と思ったのです」と、言った。
「いつも勤務先で、患者さんの様子を見ているから、視点が違うのね。子供の時から、怪談話をしても怖がってくれなかったものね」
菫が「さすがリケ女だね」と茶化しながら、笑っている。
「警察の聞き込みの内容は、耳に入っているのですか?」
「ただの様子見を、装っているみたいね。『最近、不審者を見たとか、変に思うような出来事ありましたか?』って訊くみたいよ。写真を見せる訳でもないし、具体的な内容の提示もなかったんですって。大抵の人たちが、犬の話と満月の話をしたらしいわ。『夙川の殺人事件があったからですか?』って訊いたら、『ただの見回りです』って言うそうよ」
「幽霊の話も、警察の耳に入ったでしょうねぇ」
「裏の農家さん、近所のお巡りさんと、よく喋っているから、話したでしょうね。ご婦人たちの噂では、幽霊話は出ていなかったわ」
菫の話しぶりでは、幽霊の実態が殺人事件と結びつくとは考えてないようだ。舞は、菫の楽し気な様子を見ながら、ハッとした。犬の吠声に関する論文が、脳裏に浮かんだ。確か、オーストラリアのストック博士によるものだ。
――犬は、カテコラミンが分泌されている人間に近付くと「恐怖の匂い」と感じ吠え出す。嗅覚が鋭いため、離れた場所でも感知する。
カテコラミンは、興奮神経のドーパミン、アドレナリン、ノルアドレナリンの総称だ。カテコラミンが高濃度の時、狂暴性が出る。
もし、幽霊の正体や、犬が一斉に吠え出した原因が佐伯桐花なら? その時の桐花は、カテコラミンが高濃度だったと考えられる。犬が明け方に吠え出した家々は、特定できないものか? 家が特定できれば、桐花の足取りも判明するのでは?
舞が、午前中、家の中にいると思われる小型犬に威嚇されたのは? マウンテン・バイクを漕いで坂を登ったため、運動時に分泌されるドーパミンが原因と考えられる。
舞が考えに集中していると、菫が舞の前のティー・ポットに手を伸ばした。舞のティー・カップに紅茶を足している。
「そういえば、どうして最近、食欲がないの?」
不意を突かれた。舞は咄嗟に頭を回転させる。
「食事中には、言いにくかったのですが。先週、早朝のサイクリングで、見たんですよ」
「まさか、あなたも幽霊を?」
「いえ、猫ちゃんのねぇ。無残な姿です……」
菫は合点が行ったのか、大きく頷いた。
「猫ちゃんねぇ。ドライバー泣かせよね。よく聴く話だけど、実際に見ると、食欲がなくなるよね。特にお肉はねぇ……」
何度も首肯していた菫が、残念そうに舞を見る。
「いつになったら、恋煩いのお話が聞けるようになるのかなぁ」
舞は、愛想笑いを浮かべるしかなかった。だが、頭の中は、考察に集中し始めていた。
しばらく沈黙が続いた。菫が、舞の顔を覗き込む。
「考え込んだら、眉間に皺が寄る癖。小さい時から変わっていないわね。幽霊の話が気に懸かるの? 今日の舞ちゃんは、何かに悩んいでる人みたいね。色んな話を聞きたがるけど、何か一つに繋がっているのでしょう?」
菫から見ると、舞はいつまでも子供のままだ。菫は昔から、舞の表情を見て、心情を言い当てた。菫の聞き上手な人柄も手伝って、舞も真実を打ち明けたい衝動に駆られる。
「大学院の課題が、ヘビーでね。犯罪者と食行動の関連を、論文で書くから、何でも結び付けてしまうのです」と、舞は冷静を装い、言葉を選んだ。
「難しい話は、よく分からないけど、無理しないでね」と菫が、納得したように頷いた。
麻生夫妻には、子供がいない。そのため、菫は舞を、殊のほか可愛がってくれた。舞の両親は、姉の凜を褒めそやすので、舞を不憫に思ったのだろう。これ以上、長居すると、甘えてしまう。舞はリュックから《氏鉄饅頭》の小箱を取り出した。
「たまには和菓子でも、と思って。ここのお饅頭、精神科の医局長の大好物なのよ。初めて知ったわ。お祖父ちゃんも好きだったね」
菫が、笑顔で受け取りながら、首を傾げた。
「医局長って、ずんぐりしたオールバックの初老男性かな? たまに部下を引き連れてディナーに来るわよ。周りの人たちが、ヘコヘコと『医局長』って連呼するから、偉い人なのかな、と思っていたけど。舞ちゃんの上司だったのね。世間は狭いわね」
舞は、驚いて見せた。だが、内心では思わぬ収獲に心が躍った。
「直属の上司では、ありませんよ。まぁ勤務先のトップの一人ですけどね」
錦城の自宅は、東灘の岡本町のはずだ。錦城が単なる美食家で、このレストランに訪れるとは思えない。錦城は、サナトリウム病院の研究室に出入りしている。舞は、確信した。
菫と話すと、いつも重大なヒントに気付く。レストランを出て、マウンテン・バイクに跨った。麻生夫妻が、見送ってくれる。舞は笑顔で手を振り返すと、帰路に向かった。
遠目にサナトリウム病院の一角が見える。チャペル風のコンサート・ホールの時計台を見ると、四時になろうとしていた。
県道を五分ほど進むと、《夫婦岩》が視野に入った。県道のど真ん中に鎮座する、横幅五㍍、高さ三㍍ほどの巨大岩だ。岩の周りは芝生が施された、壇になっている。西宮の観光名所でもあるので、岩の左右の道路には車寄せがあり、横断歩道もあった。だが、見通しが悪く、交通事故も多い。そのため、深夜の心霊スポットとしても有名だ。
舞がちょうど《夫婦岩》のカーブに差し掛かる時だった。背中に、院内用スマホの振動が伝わる。要件が気になった。舞は車寄せにマウンテン・バイクを止めると、リュックから院内用のスマホを取り出した。荒垣からのメッセージだ。錦城の隠しデータが見つかったようだ。
スマホをリュックに入れ、しばらく菫から聴いた話を反芻していた。眼の前では、速度を落とした車が、何台も通り過ぎた。土曜日の夕方は、行楽帰りの車が多い。ほとんどが外車や高級国産車だった。
車寄せとは言え、長居する場所ではない。マウンテン・バイクに跨って、車の流れを確かめようと、後方を見た。舞の前を一台のタクシーが通り過ぎた。
――山奥までタクシーとは、料金が高くつきそうだなぁ。
と思いながら、舞はタクシーが見えなくなるまで見詰めた。違和感が残る。前にも同じような光景があった。誰かに見られているような、感覚だ。荒垣の存在が、咄嗟に思い浮かんだ。だが、タクシーを乗り回すタイプではない。
この辺りは、芦屋の山の手の邸宅街も近い。阪神間の富裕層は、山奥に屋敷を構えるケースが多い。タクシーを乗り回す金持ちも多いだろう。舞は、思い直すと、県道を下った。
この県道をそのまま下ると、夙川沿いの《夙川さくら道》に出る。さらに南下すると、浮浪者殺人事件の現場に差し掛かる。舞は、殺人事件の翌日、出勤前に殺害現場を見に行った時の光景を思い返した。
あの日も、タクシーが通り過ぎた。偶然なのか? もし尾行なら? 舞を尾行して、得をする人物は誰か? 舞は、慎重に坂道を下りながら、推論を組み立てた。
(つづく)
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マガジン「ミステリー小説『ランビエの絞輪』」に各話をまとめていきますので、更新をお楽しみに!