サクラの下で乾杯
彼と出会ったのは桜の季節だった。
新入社員研修で隣の席だったのが、彼だったのだ。わたし達はぎこちなく挨拶をした。研修は数日間に渡り、眠くなりそうな眼を必死に開けていたのを覚えている。ふと彼を見ると、一生懸命にメモを取っているのが印象的だった。眠ってはいかん!わたしは背筋を伸ばした。研修が終わると全国へとわたし達は配属される。なので、同期が一同に揃うのはきっと研修のときだけだ。みんなで会社の研修が終わると研修お疲れさん会として、居酒屋に飲みに行った。
「みんな、お疲れさまー!カンパーイ!!!」
一斉にビールを掲げてカチンと鳴らし合う。「ねぇ、まだウーロン茶来てないんだけど」、と乾杯に出遅れている輩もいる。「乾杯くらいはとりあえずビールで合わせなさいよ!」「あ、それ強制アルコール、セクハラっすよ」「はぁ、何言ってんの、周りに合わせることも社会人としての第一歩でしょう」そんなやりとりが聞こえる。今ドキの新卒は飲み会に参加しないと言われるが、ちゃんと参加する意義や理由があれば、欠席する人はいないものだ。「全国に散らばってしまうんだね」「同期同士仲良くなりかけていたのに、まぁ会社ってそんなもんだけどさ」。それぞれがバラバラになってしまうのが、なんだか寂しくもあり、同期が全国に散らばっているというのも、もしその地域に行く機会があったら、と思うと心強くもあった。居酒屋では、どの地域の部署に配属になったかを皆で言い合う。わたしは本社勤務で採用だった。秘書業務として総務に配属されたのだ。隣の席だった彼は、栃木の宇都宮だった。本社は愛知県。住宅建材のメーカー、わたしは両親が愛知県にいるので地元の企業に就職したのだ。彼は京都出身だったと言っていた。大学も京都にある立命館だ。宇都宮という地で彼はどんな新卒としての生活を送るのだろうか、ちょっぴり心配だったのを覚えている。いつか本社に行く機会があるときには、飲みに行こうな!と彼はわたしに告げた。それからわたしは仕事をしながら、宇都宮支店の話題が出ると、耳をそば立てていた。彼のことが気になっていたのだ。
それから一年が過ぎた。桜の季節、新たな新卒が入社してくる。わたしは総務として、新しく採用された新卒の研修業務を人事と一緒におこなっていた。昨年のことを参考に、いろいろ改善していきたいのよ。人事担当者にそう言われ、眠たい眼を必死に閉じないように我慢していたことを思い出して、苦笑する。同期同士の結束を高めるためにもロールプレイングなどを入れると良いと思います!とわたしは提案した。眠くならない工夫である。現場の声を新卒に伝えるために、親しみが湧くように、昨年の新卒に仕事の内容を伝える時間を設けているという。わたしは宇都宮に配属された彼が来るといいな、と思っていた。そしたら、一緒に飲みに行ける!今度は二人で・・・。わたしはそんな妄想を抱いていた。人事担当者が、その適材人物をわたしに選ぶように言った。わたしは心でガッツポーズをした。彼に連絡してみよう。わたしは宇都宮支店に電話を掛けた。彼を呼び出すと、退社したとの返事だった。総務に勤めているわたしが知らなかったなんて・・・。人事担当者は、わたしの同期の退社の情報を伝えてはくれなかった。調べてみると、同期は50名採用だったが、約1割が既に会社を去っていた。その事実にわたしは驚いた。その10%に彼が入っていたのだ。宇都宮の彼、彼はどこで何をしているのだろう。わたしは携帯電話に入っている彼の連絡先を検索した。およそ1年ぶりに見る彼の携帯電話番号。研修の打ち上げで交換して以来、その連絡先を使うことはなかったのだ。今、どうしているのだろうか・・・。わたしは通話のボタンを押した。
「はい、田中です」
懐かしい、声だ。一年ぶりに聞く声だが、聞き覚えがあった。このときに思った、あぁわたしは彼に好意を抱いていたんだと。同じ会社ならば、また会う機会はそのうちある。そんな思いから、まだ入社して1年、特に彼に対してアタックしようなどという想いも抱いていなかった。でも、同じ会社にいないというのがわかると、なんだか無性に彼にアプローチしたくなってきた。わたしは、彼に総務で勤務していることを伝え、新卒の件で協力してもらおうとしたら退社していることを知って連絡したのだと告げた。彼は、笑って答えてくれた。あれから数ヶ月で退社してしまったこと、「オレ、情けないだろう・・・」と自分で自分のことを苦笑しているような投げやりな感じだった。研修のときに熱心にメモを取っていた彼が、その声に重ならなかった。今、彼は、大学で同期だった友人が立ち上げたベンチャーを東京で手伝っているという。今、渋谷にいるんだ、と。その瞬間、愛知にいる自分と東京で働いている彼との間に、すごい隔たりを感じた。新卒で入った会社は辞めてしまったけど、きっと立ち上げたばかりのベンチャーでイキイキと働いているであろう彼の姿が浮かんだ。数ヶ月で辞めちゃったんだ、という事実と、今新たなことに挑戦している彼、なんだかわたしの時間が止まっているような感覚を受けた。他人の芝は青く見えるものだ。そうなんだ、頑張ってね、応援している。わたしはそう言って、電話を切った。彼はまた会おう、などとは言ってくれず、そのまま電話は切れた。彼と繋がっていた細い糸が切れてしまったのを感じた。いつか、同期たったらまた会うチャンスがあるはず、と。ずっと宇都宮支店を気にしていたわたしだが、既にその支店には彼はいなかったということだ。
会社帰り、岡崎駅では桜祭りが開催されていた。途中下車してわたしは屋台がひしめく界隈へ足を踏み入れた。生ビールを購入する。やわやわなプラスチックに注がれたビールは強く握りしめると溢れてしまいそうだった。彼と新卒研修の後に乾杯したかったな、その妄想が崩れたことに悲しさを覚えながら
「わたしは、地元で新卒として採用されたこの会社で頑張っていこう」
そう桜の下で自分に乾杯した。