記憶
1995年1月17日 午前5時46分。京都市。
その時、私は目覚めていた。
なぜこんな時間に目覚めたのかは直後に知ることになる。
部屋に閉じ込められるのは困ると思い寝室の扉だけを開けた。
そして揺れが収まるのを待った。
妻も揺れに驚いて目覚めた。
隣の小さなベッドで子供だけがすやすやと眠っていた。
おそらく記憶にある限り今まで経験したことのない揺れだったと思う。
幸いなことにモノが飛んだり落ちたりすることもなく、揺れは収まった。
速報が流れているかと思いテレビをつけた。
だがどの局も通常放送だった。テロップすら流れていなかった。
そして私はもう一度ベッドにもぐりこんだ。
次に目覚めてテレビをつけた時、ことの重大さを知る。
慌てて大阪の親戚や知人、芦屋の親戚に連絡する。
これも幸いなことにケガ人や亡くなった人もいなかった。
だが、テレビが飛んできたり、タンスが倒れたりした話はあちこちから聞かされた。
我が身、我が家族の安全にホッとするのが精一杯で、被害の大きかった地域に思いを馳せることなど出来なかった。
後日、芦屋の親戚を見舞うことにした。
そしてそこを足掛かりに初めてのボランティアも試みた。
当時まだ若かった私は体力的には自信があったし、重いモノを持つなどのことも比較的得意だと思っていた。
だけど、河原の雑草を抜くようには全然いかなかった。
仕事のこともあり2日間だけのボランティアだったけど、私にとっては苦い記憶だ。
実は1月17日は子供の誕生日にあたる。
震災の日も予約してあったバースディケーキを馴染みのケーキ屋さんに取りに行ったのだが、世間にそんな雰囲気はまったくなくケーキを買うことに顰蹙さえ感じるほどだった。
あの時の重く垂れこめた曇り空は覚えている。
そして今日、あの日から29年経過した日を迎えた。
未だに当時の人口の1%しか戻ってないエリアもあると聞く。
ただ願うことしかできないが、何とかなってくれればいいのにと思う。
正月にはまたしても揺れが地域を襲った。
それはあの時の揺れを思い起こすに十分だった。
一瞬で29年前の光景が頭をよぎり、立ち上がることさえできなかった。
自分にできることは何かと考え、生活に支障のない範囲ですでに数件の寄付はした。できればボランティアにも行きたいのだが左膝が思うように動いてくれない状態ではかえって足手まといになりかねない。
親しくさせてもらっているYUKARIちゃんも以下の取り組みをされています。
私は無神論者だが、神の仕業としか思えないことが度々起こる。
我々人類に神は何をお望みなのだろう。