歩くことについて語るとき、僕が語ること~歩くことに関して言えば、誰もがアマチュアである~
「歩く」ということに関していえば、プロフェッショナルは存在しないと僕は考えている。
あくまでも日常にありふれている、普段の歩行について。
「歩く」という意識すらすることなく、誰もが当たり前に行っている、左右の足を交互に踏み出して移動する行為について。
いつだったか、散歩をしていて、ふと「歩くことは誰もがアマチュアだ」という考えが浮かんできた。
世界にこれほどまでにありふれていて、人類が生まれた瞬間から今日まであまりにも長い歴史を持ち、誰もが無意識に行える習慣と化している行為であるにもかかわらず、「歩く」ことに関するプロフェッショナル(職業歩行者、あるいは職業散歩者とでも言えば良いのかな)は存在しない。
「歩く」ことに関して言えば誰もが平等にアマチュアで、この資本主義社会においてさえも、競争、価値、金銭、評価といった尺度から独立して存在し続けている。
「歩行の歴史はすべての人の歴史なのだ」
レベッカ・ソルニットは『ウォークス 歩くことの精神史』の中でそう書いている。
この本はおそらく、歩くことと人類との関わりを描いた世界で初めての本だと思う。(他にもあるならぜひ教えていただきたい)
この本を読み進めていくと、ある一文が僕の目に止まった。
「誰もが歩くことについてアマチュアである」
僕の考えていることと全く同じ言葉が、彼女の著書に現れる。
でも、これは珍しいことではない。歩くことについて、歩きながら巡らせる歩く人たちの思索は、世界中のどこを歩いているにせよ、大いなる何かから同じような言葉を受け取っているのではないかと思えることが多い。
「歩くことは誰もがアマチュアである」
これは僕の言葉でもなく、レベッカ・ソルニットの言葉でもなく、僕やレベッカが世界から受け取った言葉なのかもしれないと感じる。
長時間歩くという非生産的な行為を延々と続けながら、歩く人たちは様々な思考を巡らせる。移りゆく風景をただ眺めて通り過ぎるとき、その目は観察や分析ではなく、レベッカの言葉を借りればそれはインプロビゼーション的な出会いとして歩行者と風景の関係を作り出す。
また、歩く人は「速度」に敏感になる。
「速いことは良いことだ」という効率を最重要視する現代の価値観に敏感になる。
「現代は生活の速度が恐ろしく増している」と、ニーチェは語っている。
ニーチェはある時期、毎日8~10時間の散歩を毎日していたほどの、歩く人だった。
マハトマ・ガンディーは、鉄道の速度について、そのあまりの速さは人間をダメにするに違いないと嘆いた。
レベッカも『ウォークス』の中で同様に、文明の速度と歩く「速度」について語っている。
長い距離と時間を、ひとり歩くことを好む人はみな、人間の「速度」の在り方に辿り着いているように思える。
僕は彼らのような偉人ではなく、普通の凡人にすぎないけれども、僕が歩くことを始めたきっかけのひとつに、歩く速度からあまりにかけ離れた「現代の速度」に気づいたということがある。
4時間歩いて移動した距離をわずか10分で通り過ぎた帰りの電車の中で強く感じた違和感には、重要な示唆があると思った。
そこには「人として生きるとはどういうことか」という問いに通じる、十分に時間を掛けて探求すべき問題がある。
歩くことについて語るときに僕が語ることがあるとすれば、それはありふれた凡人の、名もなきひとりのアマチュアが、極東の島国の一地方を歩行して考えた、歩くことと人類の歴史を形作る無限とも言える欠片の中の、ほんの小さな一つのピースに過ぎない。
僕だけでなく、すべての人は、そうやって歩くことについて語るのだ。
自分の足で歩ける世界だけが、僕たちが語りうる世界なのだから。
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