競争のない世界は、どんな世界なのだろう
いつからだったか、僕は競争が心底嫌いになった。
多分、大学を出て最初に就職したときからだったと思う。
ある通信社に新聞記者として就職し、地方の支局で始まった記者の一年目。
そこはすべてが凄まじい競争の世界だった。
一分、一秒をかけて他社よりも速く情報を伝えることが最大の成果だった。
5分後に発表されることを、5分前に伝えることが特ダネだった。
速く、とにかく速く。
早朝から深夜まで競争に明け暮れた。
深夜も当番があり、自宅に引いたファックスに当局からの情報が送られてきて、寝ることも出来ない日々が続いた。
問題は、そうした決死の競走の結果として、本当に意味のあることを伝えることが出来ていたのかということだ。
いや、マスコミの仕事に意味がないとは言わない。
でも、少なくとも僕にはそれが感じられなかった。
目の前で泣いている人たちに言葉の刃を向けることが、正義だとは思えなかった。
それが僕の弱さだったと言ってしまえばそれまでだ。
それまでだけれども、もしそうだとするならば、僕は弱いままの人間でいたいと思った。
僕には必要のない強さを求めて、僕には必要のない競争を続ける世界がある。
僕は自分の意志でそこから離れた。
ただそれだけのことだ。
今日、物議を醸していたとある運動競技会が終わったらしい。
僕は全く興味がないので、SNSで流れてくる結果をぼんやりと眺めていただけだったけれども。
競争は、人間を分別するための便利な装置だと思う。
一番優秀な人間を、ほかの人間と分別する。
たった一人がすべてを手に入れ、他のものは残り僅かなもので我慢する。
競争を続けていけば、最後に勝つのはたった一人。
他のすべての人間は敗者だ。
こうした装置が、何のために生まれたのか、僕は正直良くわからない。
人類が野生の中で生き残るための戦略だったのだろうか。
進化の過程で社会というものが生まれて、その社会を持続させるために、優秀な人間たちが子孫を残すようにするためのふるいだったのだろうか。
僕のような競争が嫌いと言っていた人間は、すぐにふるいにかけられて、子孫を残すこともなく死んでいったのだろうか。
そうだとすれば、僕たちはみんな勝者の子孫なのかもしれない。
僕は競争が心底嫌いだ。
競争の結果もたらされるものが、本当に僕たちを幸せにしてきたのか、正直疑わしい。
僕が記者だったとき、目の前で傷つき、泣いていた人たちにキツい言葉を投げかけていた記者仲間たちは、激しい競争に摺り減らされて、心を失ってしまったように僕には思えた。
僕はこのところずっと考えている。
競争のない世界は、どんな世界なのだろうかと。
そこは少なくとも、誰もが走る必要のない世界だと思う。
歩く速度で生きることが選択できる世界。
同じ速度で生きる仲間たちと歩調を合わせて、同じ方向に向けて共に歩き続けることができる世界。
激しい競争を死ぬまでけしかけてくるこの世界で、競争に敗れ、疲れた人たちが安心して逃げてくることが出来る、もう一つの世界。
競争に疲れて走ることをやめた一人の人間が、そうした世界を歩くことで作ることが出来ないだろうか。
この世界の僅かな人々のための、輝かしい競争者たちの頂点を決める世界の祭典を横目に、
僕はそのほかの何十億もの敗者たちが、争うことなく生きることの出来る世界の可能性を考える。
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