人の言葉、社会の言葉~言葉を救うということ~
言葉が持つ意味には「人に属する意味」と「社会に属する意味」があると前々回の記事で書きました。
それを書いてみて始めて僕は言葉の意味が「人」と「社会」で大きく分離されていることに気が付きました。
それ以来、普段使われている言葉がどちらの領域に属しているのかを何となく意識して考えるようになりました。
そして、あれ?っと何か引っかかる言葉は、大体「社会に属する意味」を持っている言葉かもしれない?ということがぼんやりと見えてきました。
先日最新号が発売となった、プライベート出版レーベルアフリカキカク発行の雑誌『アフリカ』31号に、湘南の散歩屋さんも文章を寄稿させていただきました。
ここ半年の疫病下にあって、執筆者のひとりひとりが変わりゆく日常に戸惑いながらも向き合っている姿が映し出されていて、とても面白く読ませて貰っています。
『アフリカ』の執筆者たちの言葉は、彼ら自身に身近な人や生活、風景に寄り添った「人」の言葉で書かれていて、僕たちはこういう言葉になんとなく安心を感じるのかもしれないし、一方で『アフリカ』という場の力が意識的に「社会」の言葉に抵抗しているようにも感じられます。
僕たちは何に抵抗しているのか。
例えば、最近の社会の言葉で一番良く使われるのは「自粛」だと思います。
【自粛】(じ-しゅく)
自分から進んで、行いや態度を改めること。
僕たちはこの言葉を「自分の意志により行うもの」として使っていたはずでした。
しかし疫病が始まってからというもの、「自粛」が突然社会の言葉として使われ始めて、その意味を変えていきました。
【自粛】(じ-しゅく)
社会のために自ら進んで行いや態度を改めることを暗黙的に強制され、自らの意思に反してでも行いや態度を改めること。
注意して観察すると、こういう雰囲気の意味に変化したことがわかります。
そしてこの変化は、世間への忖度という暗黙の合意のうちに行われたため、本来の「自粛」が持っていた「人が自らの行いを反省し整える」という、世間一般的に「良識」と「徳」のある行為という意味を、そのまま受け継いでしまいました。
【自粛】(じ-しゅく)
社会全体ために、自らの意思に反して強制的にでも行いや態度を改めるべきであり、そうしない人間は非難すべき対象である。
そういう意味を持ち始めた「自粛」という言葉は暴走を始め、一時期よりは勢力を失ったものの、未だに強い力を持ち続けています。
「社会の言葉」は、何らかの要請により僕たち人間をある方向に動かすために使われることが多いです。
注意深く言葉を見渡せば、そうした言葉がたくさん溢れていることがわかります。
僕自身もそれと気づかぬままに、社会の言葉どおりに行動していることがあるのだろうと思います。あまりに蔓延しすぎて、どれが社会の言葉かを見分けるのはとても難しいことです。
『アフリカ』の執筆者たちの抵抗は、本来「人」側にあった言葉を「社会」側の言葉としては決して使わない、という意志であるように感じます。
それは相当に強い意志がなければ、出来ない仕事だろうと思います。
作家で建築家でまとまらない人の坂口恭平さんが、先日こんなツイートをしました。
ここ最近の言葉に違和感と嫌悪感を感じていた自分は、この坂口さんの言葉にはっとさせられました。
言葉は悪くない。
「自粛」という言葉も、もちろん悪くないのです。
本来の意味をもぎ取られ、違うものに変えられてしまった言葉を嫌悪感で跳ね除けるのでなく、その言葉を救ってあげること。「人」側にあったときの、本来の意味を取り戻してあげること。
言葉を救ってあげる気持ちで、口にする。
言葉を救ってあげる気持ちで、文章を書く。
少なからず言葉で表現する者の一人として、この意志を持っていたいと思います。
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