どうか、息詰まる「発信」に打ち負けないでください。

 みんな素晴らしい。みんな偉い。

 SNSのタイムラインをざらっと見れば、どう考えたってまともで、感動的で、時に感傷的な詩であったり、感情的な揺さぶりであったりするような。そういう類の言葉たちが軒並み揃って並んでいるもんだ。それを現代、人は「発信」と呼んでいるらしく。非常に尊いことです。それ自体に何言うつもりもなく、掛け値なしに尊びたい。「良い仕事だ! 良い言葉だ! 良い思想だ!」と称えていたい。できれば芳しく思いつつ、両手上げて喜んでいたい。

 切れる頭を持つ読者には、わたくし与太郎が書きしばくこちらの話の落ちる場所はきっと見えているんでしょうが、ひとつ。俺、ちょっと疲れてしまったのだ。『上手く生きるためには……』なんて話を、俺、見ていたい気分でなくなった。Tipsだらけの世に、ほんの少しばかり辟易してしまっているような気配が。もちろん、首根っこ掴んで「てんめえこの野郎、うるせえんだよ!! 黙れ!!」と、声枯らしキャリキャリ叫びたいのではない。なるべくそれを面白がっていられたら、どんなに良いことか。

 近ごろ、「発信」の言葉・態度・行動行為に対し、嘆かわしさみてえなものを感じてしまうのである。ちょいと氾濫しちゃってはいませんかねぇ、と思っちまった。僕、別にソクラテスが生きた時代に鎮座してるわけじゃないんでした。『馬の耳に念仏』とはよく言ったものだが、私はその際、驢馬畜生ぐらいのもんなんでしょうか。たんまり腹一杯でございます。食らっちゃねえ。

 はたまた、身の回りの友達どもについてもそんな感じなんだった。ちいせえ「世」が発信発信だなんて言うもんだから、美しい言葉しか言っちゃダメなんじゃないかって躍起になってしまい、悶々疲れちゃっていた。俺は、それを可哀想だ、と思った。


 むろん尊いのだ。気張っている人間の後ろ髪なんか掴みたくない。「世に言う “発信” なんかやめちまえチクショウ!」じゃない。ひとつ、そんな、頑張りすぎなくても良いじゃないですか。『あー、晴れてるねぇ。散歩にでも行きてえなぁ』でも、なんも問題ございませんです。

 ごく個人、きわめて主観に寄り添った話を書けば、俺は『外で吸う煙草はなにゆえ旨いんだろうなぁ』だとか、『秋と春には “中間” みたいな趣があって美しいねぇ』だとか、そういうのを求めてしまうタームに没入している。『路傍にたむろしてる猫から好かれる奴の気が知れねえ。嫌われてばっかりだよ』とかさぁ。

 毎日トンカツ食ってる訳にもいかないんです。朝昼晩、ひねもす毎度毎度イチゴのショートケーキなんか食えたもんじゃない。たまには日曜の十三時に親父が作るだらしねえ焼きそばも食らいたいでしょう。気の抜けたサンドイッチがあっても良いでしょう。トンカツは旨い。ショートケーキも素晴らしい。だが、同じく、親父作の「日曜の焼きそば」も、「安物のハムとチーズ挟んだだけのサンドイッチ」も有難い。そういうことなんです。

 あんまり気負わなくて良いと思います。「発信」の上っ面綺麗な言葉だけに囚われ、『何か言わなきゃ!!!』って苦しいよ。気づいた時には自分の首絞めちゃってました、疲れちゃいました、なんてとんでもない。悲劇だ。

 大丈夫です。がっちり屈強であることだけが正義じゃない。世で認められる「正しさ」に、気づけば十字架張りされちゃって悲しい。みんなそれぞれ素晴らしいんですから、『発信しなきゃ』なんて、きっと思わなくて良いはずだ。思っても良いんだが。どうか、頑張りすぎないでください。たまにはつまんねえ話もしていきましょうよ。気負わず。のらりくらり。のんびりやんわり楽しんでいきましょうよ。

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三浦 希
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