夢のような生活。

 記念すべき “年明け” から三日も過ぎたとのことで、布団にくるまってばかりの生活を止めてしまおうと思った。外出と言えば、煙草を吸うためベランダに出るのみであって、世が表すような「辞書的外出」は一切無い。足元、秋の荒ぶる風を堪えられず、地に打ち付けられぶっ壊れちゃった硝子灰皿。破砕の片々が遅起きの朝日にきらめいて夢みたいだ。

 インスタントな代用品として、室外機の上には缶ビールの抜け殻を置いた。労働者の匂いがする。狂いそうになった。夢うつつ、うつつにドッチラケ。興醒め。めでたいめでたい新年の陽光が照らすのは、まだ夢を観てる寝ぐせ頭と、煙草のヤニで黄色になった人差し指の爪、数多の吸い殻を食いきれず今にも吐瀉しそうなビールの空き缶。灰まみれ。鳥が楽しそうに鳴くのをどうしても止めたいと思った。あるいは、叫びたいと思った。鳥ぐらい自由に叫べたら、きっと爽快だろうな。痛快だろうよ。

 夢みたいな朝だった。己、アンビバレンツに弄ばれているような感じだ。悲しくて嬉しい。切なくて楽しい。非日常の日常。ハレのケ。よく分からんが鮮明に分かる。けだしあの折、俺は寝ながら起きていた。

 「夢のような」が表す意にはおそらく、ふたつの種類があるのだろう。ひとつは桃源郷のような。俗界を離れた遠い場所、ぬるま湯36℃のような快適。何もかもが煌めいて、目には苦しくなく、いつか憧れたものすべてが手の届くところにコレクトされ切っており、どこまでも突き抜けて自由な様。入り乱れた経済社会も無い。七面倒な人間関係も無い。ただただ欲しかった世界が広がっていて。極彩色で輝く体裁、まるで「死」に近い。

 もうひとつは、快眠がもたらす欺瞞の様。寝て観る「夢」です。夢遊。俗界を離れているようで、ゆめゆめ離れておらず。エデンにてアダムとイブを俯瞰する。カシオペア、山形星が自宅すぐそばの空き地に堕ちる。えっちらおっちら振れてるデブ犬が振り向けば、彼の顔面は煙草屋のおじちゃんのそれであった。ような。

 大学の頃憧れていた先輩とセックスしている夢を観た。夢のようで、確かに夢だった。こと文章表現というのは、脳天パッカリ割っちまって、まさに「夢」みたいにとっ散らかった物々(しばしば記憶であり個人的イシューである)に、ずばり横串を刺したり、余計な脂身を切り落としたり、調子よくまとめたりするもんなんじゃないでしょうか。ベランダを通る傲慢な風に割れた硝子灰皿、いい加減掃除しなくちゃいけない。

 コンビニ袋を手にまとい、これは現実。年明けの「掃除」でしょう。おずおず硝子のひとかけを手に取れば、あらやだ、ジャキッと音立てて袋が割れた。内側の指切れちゃって、血がぽかんと浮き出てございます。陽の高さでほとんど正午を確認し、「夢みてえだなぁ」と独り言をこぼしてゲラゲラ笑った。煙草の煙は傷口によく沁みるということを知った。

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三浦 希
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