魂を込める。文章表現はそれだけで良い。
囲い込むつもりはない。独占しようともしない。プレミアが付いた自分を誇示するでもない。お山に登って胸を張り、上から眺めて自己を誇大するでもない。
文章には、魂が込められているべきだ。熱く滾る心が、寂しく翳る心が、燦燦と煌めく心が込められているべきだ。それにつき、構成云々、使う言葉云々は関係無い。たしかに、美しく組み立てられている文章は良い。言葉は正しく使われるべきだ。が、別に「必要」ではない。そこに気持ちがあれば、魂があれば、何だって良い。誤字があろうが、稚拙な表現だろうが、そこに人の体温があればきっと、何だって良いのだ。
自身、こと文章表現においては「質より量」にはまったく同意しない。アウトプット量、書く文章の量を増やせば自ずと質も上がっていくだなんて、夢のまた夢である。「とりあえず書く」なんて、口が裂けても言うんじゃねえよと思っている。もちろん方法の一つとして認められる理由もわかる。まったく書けずに唸り続ける者よりも、質を度外視し書いて書いて書きまくっている者の方が、きっと上達は早い。ただ、僕はそこに夢を見たくない。
心内をどうやって表せば適当か、ひたすら検討しては挙句消してしまうようなもの。書いては消し、鉛筆の跡と消しカスでぐちゃぐちゃになった文章。涙を流し、汗でびちゃびちゃになって書きなぐった文章。一生懸命とことん捻り出して、自分なりに最高だと思える形がやっと出来た、そういうものが評価されるべきだ。生き霊が乗り移る、魂が浮いて見える、決死の汗が滲んで伝わる、そんな文章。その類こそがきっと読まれるべきで、讃えられるべきだ。上手い・下手の判断基準に乗らない、「人の匂いがする文章」である。
人間臭いと言われ続けてきた。破滅的だなんだ、人間味がどうのこうの言われてきた。当たり前だ。魂擦り減らしてやってんだから。死にたくねえ、書いてからじゃないと死ねねえ、と思って一字一句を書いてるんだから。汗かいて、苦しみ果てて、もがきまくって書いてんだから。当然だ。そうでなきゃ困る。
魂込めてやっていきましょう。片手間で書いた文章が読まれてヤッター、そんなのは幻想です。全力で傾倒しよう。ぶっ倒れるくらい傾きましょう。悩みまくろう。絞り出しましょう。猫背になって、鉛筆を強く握りしめ、パンツ一丁で知恵熱出しながら文章を書きましょう。己の文章には、魂を込める。これがもっとも大切です。ハンパな気持ちでやっちゃダメだ。「とりあえず書く」なんて、正直、クソくらえである。持てるすべての魂を込めて、ひとつの文章を全力で書くこと。これこそが、人様に読んで頂くための文章における、唯一の絶対条件である。