春はきっと、ほんのり寂しく悲しい季節です。
『三浦に聞いて欲しいことがあるから、お前がいつも行ってる下北沢の居酒屋に連れて行ってよ ご馳走する』
平日真っ只中、たしかあれは水曜日のことだった気がする。時刻は午後9:00を少し過ぎた辺り。ドケチな彼から『ご馳走する』なんて言葉を聞いたことはこれまで一度として無く、どうしたものかと思い、そもそも『聞いて欲しいことがあるから……』なんて言われたことも今まで無く、なんだか少し寂しげな雰囲気を捉えた僕は、すぐに「もちろん行くよ 焼き鳥が良い」と答えた。
人から奢られるのは、ちょっと苦手だ。それも、同年代の人から。ほんのり居心地が悪く、きっときまりの悪さから苦笑いばかりしてしまう。俺、大丈夫かなぁ。渋谷行き、井の頭線急行電車が下北沢に到着。南口が無くなってしまったのはかなり厳しい。訳がわからず、「←南西口」と書かれた貼り紙を頼りに駅を出た。
出口のスロープにすっぽり腰を掛けていた彼は、ストライプのスーツをパリッと着こなしているにもかかわらず、自前の猫背と腫れぼったいまぶたのおかげで、全体的にしんなりしていた。わざとらしく「お疲れっすー!」と声を張る。『なんだお前 元気かよ』と彼。僕は元気だ。朝から何も食わず、腹を空かせていたので、「元気だよ~ 早く飯を食おうよ 酒をたらふく飲もう」と続ける。よく行く焼き鳥屋を目指した。
赤星の大瓶と、グラスを二つ。もつ煮、冷やしトマト、うーん、カシラとハラミを塩で2本ずつ。レバーも食べたいな。レバーはタレで。あ、2本です。以上。「で、話って何ですか?」
『俺、仕事を辞めようと思うんだよ なんだか、全然面白くなくなっちゃって 三浦は楽しそうじゃん 羨ましいよ』
なるほど。そういう話か。薄暗い居酒屋のテーブル席、ダサいポスターが貼られた、トイレに一番近い席。返事にすごく困っていたところに、瓶ビールの一本とよく冷えた小さなビアタンが2つ届いた。「ひとまず乾杯しよう」と言って、彼のグラスにビールを注ぐ。彼がビールの瓶を寄越せと手を伸ばしてきたので、「いや僕は手酌で」となるべく優しく拒んだ。
仕事が面白くなくなっちゃった。年度末、ほの暗い春の悩みであった。「大変だね 続けて何年になった?」『二年続いて、これから三年目か』「うーん すごく難しい 実質、どうしたいと思う? 今の気分だけじゃなく、実際」『なるべく辞める方向で考えてる でも、三浦のライター職みたいな、他にやりたいことなんてほとんど無いし どうしたら良いのかな』
答えられず悶々としていたところに、『そりゃそうだよな、わかんないよ 俺だってわかんないんだから』と言う、彼の声が聞こえた。いつもより小さかった。僕は、ビールグラスの中、しゅわしゅわ弾ける泡をやむなく見ていた。きっと彼もまた、下の方を見ながら言ったんだと思う。「謝るなよ 全然謝る必要なんか無い とりあえず、楽しい話をしようよ」と答えるだけだった。それしか言えなかった。
最近仲良くなった可愛らしい女の子の話をした。金がすこぶる無い話、にもかかわらずペットを飼いたい話、中目黒の桜が綺麗だった話、洗濯物が面倒臭すぎる話をした。コリアンダーをかけると何でもカレー味になってしまう話もした。全部とりとめもなく、くだらない。この日は特別、そんな話が多かった気がする。
レジにて、会計のすべてを彼が出してくれた。「すいません、本当にありがとう」と言うと、『いや、本当に お前のアレじゃないけど、謝るなよ』と言われる。泣きそうだ。「なんとかなるよ 何でも言ってよ 全部聞くので」と答えて、彼の顔を見ることもできず、「じゃあまた。」と手を上げる。きたねえ引き戸を後ろに、グレーのストライプ、肘の辺りにシワがたまったスーツの腕が低い位置で小さく揺れた。
きっとまた、元気になってくれたら良いなと思った。何もできない自分を悔やみつつ、この日は、缶の発泡酒を飲みながら歩いて帰った。辺りは桜がチラチラ舞って、今年もまた、春になってしまった。
頂いたお金で、酒と本を買いに行きます。ありがとうございます。