日々の充足、ぶち壊すにはもったいねえなぁ。
地獄の暑さに耐えかねて、なけなしの金を交通費に落とし込んでは山手線。クーラーを持つ恋人に会うため、へろへろ向かっている。私の家には、三年前に移り住んでからというもの、クーラーというのが無い。エアコンというのが設置されていない。家賃の安さに甘んじ、廊下側の部屋を選んでしまったが最後。最期。室外機を取り付けるには都合が悪く、ましてや知らんが、その部屋は南を向いているらしいのであった。
夏の朝の目覚めは「起きる」と呼ぶ価値も無い。「死なされかける」と言うのが最適です。毎朝毎朝、強気の日光に死なされかけている。汗で溺れる。昨晩の酒はそこらじゅうに揮発、脂臭い布団と相まって、上手く頭が回らないほどの刺激臭が部屋に漂ってる。溺れる溺れる。困った。恋人が住む涼しい部屋、まるでオアシスのようで、確かに生かされている。あそこには、芳しい脂の臭いが無い。
春先、恋人ができました。それはそれは良い奴で、腹が減れば『ごはん何食べる?』と聞いてくれるし、よく本を読み、よく飯を食らい、ふっくら太って健康的なお腹と太ももを持つ。本人は気にしているらしいが、さして問題無いと思う。むしろキュートだな、ぐらいに思っている。
びっくりするのだ。彼女と会うと、びっくりするのだ。一向、あらゆるすべての言語表現が死んでしまうのである。さながら猛暑を保つ私の部屋がごとく、言語表現を死なせてしまう。てんで凄いことだな、と思う。充ち足りているのだ。何もかもが充ち足りているからだ。飯はすこぶる美味い。部屋はキンと涼しい。酒を出してくれる。金が無ければ煙草も買ってくれる。充ち足りているのだ。パンク的アティチュードを賭け金として少ないリターンと共に細く生きてきた私としては、「充足」に恐れおののいてしまうのだ。自分が自分でないような気になる。
「不足」こそが私を私たらしめてくれていたように思う。圧倒的な不足こそが。金が無ければ、無い態でもって、極力なんとかしようと尽力する。飲む酒が、食う飯が、着る服が、遊ぶ女の子が。そのすべてが軒並み揃って「不足」していたことこそ、私を雑作に動かす唯一の動機であった。アイデンティティの起こりであったようにも思う。そのすべてはパンクであった。ペシミズムに悲しみ溺れて、悲劇のヒーローよろしく猫背に語るわけではないが、「私は誰になっちゃったんでしょうか」と自問することが幾分増えてきた。
幸福なんである。ただただ幸福なんである。布団にくるまって寝ている恋人の姿を見れば、フライパンから弾ける油に驚き少々怯える彼女の顔を見れば、ベランダで煙草を吸う私の横顔を見てヘラヘラしているあの子のゆるい口元を見れば。他に言いようが無いのだ。幸せなのだ。部屋の真ん中、端麗に畳まれた私の白いTシャツ。スニーカーは玄関にてひっそり右左揃っている。酔って帰れば冷水の一杯。風呂から上がれば歯磨き粉の付いた歯ブラシ。もう、まごうことなき「幸福」なんである。
「充足」であった。「幸福」であった。気が遠くなるほど何もかもが不足している身の上を、ふらふらと綱渡りの格好でもって生きてきた私にとって、「充足」はほとんど敵なのでした。だから、もう、何もできなくなってしまって。丸腰なんです。これまで私が自らを奮わせるため設定していた「美意識」のようなもの、「パンク」と呼んできた数々のアティチュードたち、すべてが絶えてしまいそうです。だから、びっくりするのだ。
もちろん「不幸」ではない。そのような物言いをするつもりは断じて無い。美味い飯食わせてもらって何を言うか。不幸じゃないのだ。幸福なんだが、充足なんだが、どうしましょう。
「山手線を降りて、今駅に着きました」『今コンビニの前を走ってる。迎えに行く』「そっか、ありがとう」
イヤホンから一昔前のラブソングが流れていました。「あー、俺は一体何なんすかねえ」と独り言を言って、それを止め、遠い昔に目をギンギン開いて聴いていたパンクロックを流してみる。SEX PISTOLSしか知らん。曲中、ボーカルのジョニー・ロットンが歌う “I am an anarchist” を自身に重ねます。アイワナデストロイ。なんだか今、そんなこともないんだな。ぶらぶらだらしなく走る恋人が遠くに見え、路上で吸ってた煙草を缶コーヒーにぶち込んで捨てた。可愛かった。