こんな時世だからこそ、 「何のへんてつもない生活」 を大切にしたい。
春。「お花見」の小気味良い響きと語感のゆるやかさ、先に待っているであろう言い訳ったらしい “飲酒” であったり “飲み会” であったりにかまけつつ、吉祥寺・井の頭公園を目指した日があった。
恋人は『昔住んでたんだよね〜〜、楽しみだなァ』なんて言いながらヘラヘラしていた。口が開きがちな彼女、電車の窓越しに見る桜の桃色や川の青色にポカーンとしてて。たまに眠そうで、うつらうつらと首をこぼしてしまいそうになっていた気がする。あまり覚えていないが確かに可愛らしかった。3月末。
どうってことない時間が素敵だったな。点々バラバラのよもやま話が煌めいてたな。変哲なく、素朴で、ありふれていて。どうにもありきたりで。桜なんか無くたって、きっと成立していたような。
花を見て、川を見て、でけえ木にのけぞって、知らん人の飼い犬をめちゃくちゃに撫でたりなんかして、なぜかちょっと寂しくなった。
この日々がじわじわと浸食されて、誰も外へ出られなくなって、よくわからんうちに鬱屈とした気分が押し寄せてきて、体調悪くもねえのに、ただなんとなく、ただなんとなく気分だけがずぶずぶ悪くなっちゃったりなんかして。
俺はそれがすごく嫌だ。悲しく思う。なんでもなくて幸せだった日常がゴリゴリ削られてしまうことを、とても悲しいと思う。
だからこそ、今、淡々とのんびり流れゆく普遍な時間がすごく尊い。手垢まみれ、煎じられまくってお湯しか出ねえような『普通が一番』なんていう表現を、少しだけ信じてみたいとも思う。
晩飯がやたらと旨かったり。黒い室外機がなんだか格好良かったり。工事現場で優雅にぶら下がっていたヘルメット、雪明けた朝、水を溜めて滑稽な様を見せていたり。全部、全部。全部美しかった。
なんでもない日。なんでもなくて、美しい日々。何のへんてつもない生活。「返せ」とは言わないが、いまの自分が抱きしめとどめておける “ふつうの日常” ぐらい、存分大切にしていきたい。“何のへんてつもない生活” の平凡な輝きを、きっと永く忘れないでいたい。