【私小説】消えないレッテル 第6話
*
ゲンショーさんのお別れ会が終わったあとは休日だったので、しっかり休むことができたような気がした。
ゲンショーさんのことを思い出すと、なんだか心がズキズキするけど、いつも通りの身支度をして、平常心で会社へ向かっていく。
なにも変わらない、いつも通りの職場だった。
休日で、なにもかもを忘れ、まっさらな気持ちで、いさせてくれるような感覚でいた。
そう。
きっとゲンショーさんも、いつも通りに戻っているに違いない。
そのときの私は、そんな期待を彼女に持っていた。
*
「おはよう、ゲンショーさん」
なんとなく、いつも通りに声をかけ、いつも通りに返事をされることを期待していた私は、斜め向かいに座る彼女の声を待った。
返事は、なかった。
そうか。
もう話しかけないほうがいいのか。
そう判断した私はゲンショーさんに挨拶をするのをこれから、やめようと思った。
そんなときだった。
一通のメールが会社での私のデスクトップPCに映し出される。
そのメールはゲンショーさんからだった。
『カミツキさんへ。
お話があるので、会社の玄関ホールまで来てくれませんか。
大事な話です。
よろしくお願いいたします』
そのメールを受け取った私は彼女の言う通りに玄関ホールへと向かった。
*
玄関ホールにはメールの通りにゲンショーさんがいた。
彼女は深刻そうな顔をしているのだが、いったいどうしたのだろうか。
「カミツキさん、あなたに言いたいことがあります」
朝の挨拶は無視したくせに、なにを彼女は伝えたいのだろうか、という疑問は置いといて、とりあえず彼女の話を聞くことにした。
「私は、あなたに対して、ひどく不快感を持っています」
「はい」
「あなたが私に話しかけること、それをやめてください」
今日の朝、ゲンショーさんに挨拶した時点で、もう話しかける気はなかったのだが。
彼女は、なにを私に言いたいのだろうか。
「私、結婚するんです」
彼女は、ここぞとばかりに「言ってやった」という顔で、そう言った。
「あなたが私に話しかけることに迷惑していたという事実に気づいていましたか?」
「ごめんなさい、気づいていないです」
「私、これから幸せになるのに、あなたのせいで彼に迷惑をかけるわけにはいかないのです」
「そう、なんだ」
「だから、もう、話しかけることをやめてください」
もともと、やめるつもりだったんだけどな。
というのは、隅に置いておくべきなのだろうか。
彼女に、なにか言おうと私は口を開こうとする。
「あの、さ」
と言った瞬間、彼女はメモ帳を持ってボールペンを構える。
あぁ、これ、会社に訴えようとしているわけだな。
「どうしたの?」
「なにか言えることがあるなら言ってください。メモしますから」
「なにハラスメントで訴えるつもりなの?」
「私があなたを不快に思いました。それがハラスメントです。ハンカチ、やっぱり気色悪すぎて捨てました。あなたが私に、なにかをプレゼントすること自体が気持ち悪すぎて、ちゃんと処分させていただきました」
そうか。
私はハンカチを「さよなら」という意味で渡したんだけどな。
そんなあなたが私の挨拶したのを無視したのは、私にとっての、なにハラスメントなのだろうか。
「わかっているとは思いますけど、今回のことは、きっちり会社に報告しますね。なにか言いたいこと、ありますか?」
これは、もはや、どっちが悪いというよりは、どっちも悪いのではないだろうか。
コミュニケーション不足によるすれ違いと言えるかもしれない。
むしろ、どっちが先にハラスメントと言えるかどうかで決まるものなのかもしれない。
彼女は先手を打ったのだ。
私は、その勝負に負けたのかもしれない。
「クロイシさんもカミツキさんの私に対する行動を『大丈夫?』と心配してくれました。カミツキさんの行動は全部、総務部の皆さんが知っています。総務部の皆さんが私の味方です。あなた以外の、ね」
私以外の総務部のメンバーは私の味方ではないのだ。
その事実を知ったとき、私の中で、なにかが砕け散ろうとしていた。
私は、しがない有期契約社員でしかなく、会社にとって、とてもちっぽけな存在なのだ。
私なんかいなくても会社は回っていく。
異端分子は排除されなければいけない。
その異端分子は私のような人間のことなのかもしれない。
「じゃあ、なにも言うことがなければ、私はフロアに戻りますけど、最後に、なにか言いたいことはありますか?」
ここで、なにかを言わなければ、彼女に言われっぱなしで終わってしまう。
反撃、をするつもりはない。
それをすると彼女の手中にハマってしまう。
なにハラスメント、有力なところでいうとセクシャルハラスメントで訴えるつもりなのだろうが。
私にだって言いたいことはある。
自分は幸せになるくせに私には、なにも残っていない。
私には愛してくれる異性が存在しないし、そんなあなたは愛してくれる異性を持っている。
幸せになるあなたに、幸せになれない私。
それ以上、私を追い詰めることに対して、なにか思うところはないだろうか。
私からしたら、あなたは、なにもかもを持ちすぎている。
正直、うらやましいくらいに思う。
ある者は、どうして、ない者をさらに追い詰める習性があるのだろうか。
私には、これ以上、追い詰めるあなたを、なにもかもを持っているあなたを、どうしても贅沢な奴だと思ってしまう。
私には付き合える異性が目の前にいないというのに、あなたは、いったい、なにを手に入れたいというのか。
私には彼女が理解できない。
持つ者である彼女を殺してしまいたい気持ちで満たされていくのだが、私は、その感情を抑え、丁寧に対応することを選ぼうとした。
どうせ、なにをしても訴えるつもりなのだろう?
だったら、言ってやるよ。
俺が、どうして君を好きになったのかを。
「君は、あの病院にいたね」
「は?」
「俺も、あの病院にいたんだ。あのときから好きだったんだよ。君のことが」
「で?」
「だから、この会社で君を見たとき、運命だと、思ったんだよ」
「そうですか。ごめんなさい。私はフロアに戻りますが、今回のことを胸に刻んで、ちゃんと会社でハラスメントのないように行動するんですね。それでは、私は、これで。さようなら」
私は彼女の去っていく姿を見守った。
私に総務部のフロアに戻る資格はないと思った。
ただ、呆然とIDカードをかざす場所の前で動けないでいた。
幻覚が見えてきた。
幻聴も聞こえる。
ゲンショーさんが鬱病であることを私は知っていた。
本来なら正社員で病休していた彼女に正しく接しなければいけなかった。
それに比べて、私は、なんなのだろう。
発達障害のひとつである自閉症スペクトラム障害、それに加えて、その二次障害で統合失調症の症状が現れている。
その幻覚を抑える薬を飲んでいるせいで体はブクブクと太っていき、性欲も前の元気な頃よりなく、エンタメ系のコンテンツを摂取しても感動することがなくなってきた。
私には支えてくれる人がいない。
少なくとも両親がいるだろうが、それ以外がいない。
私は、なんのために生きているのだろうか。
*
自殺をすることだって考えたことがあった。
でも、どうしても、できなかった。
私には死ぬ勇気がない。
死ぬというのは感覚が楽になることではなく、感覚が無になるということを私は本能的に理解していた。
今のオランザピンという薬を飲んでいる私は健常者に対して思うことがある。
君たちが幸せであることを。
楽という感覚を持てること自体が、あなたたちの持っているものだということを。
あらゆる神経が異常であるという感覚をあなたたちは知ることなく死んでいくでしょう。
その間に障害者になりたいと願う健常者どもが私たちをうらやましいと思うと同時に、それはそれでお互い様でしょ、なんて、障害者である私は、それはそれで言えない。
あなたたち健常者は恵まれすぎているから。
健常者であるという特権は私には、どうしても手に入れたい権利であるように思えて仕方ない。
どうして私は障害者になったのだろうか。
あのとき、閉鎖病棟に入ったから。
どうせ、おまえは、なにもできないと言った父親。
高校を中退し、二回目の高校を卒業し、薬学部で入学した大学を留年し、いや、正確には同じ大学の同級生に筆記用具を試験時に隠され、それが原因で留年してしまったことにより、父親にキレられ、珍名学部に転学させられたこと、そして、なにもできないと父親に言われ、閉鎖病棟に入ったとき、おまえには、なにもできないと言った父親に障害者手帳の取得を勧められた。
というか、ほぼ強制だった。
そして、私は障害者になった。
なにもできないという烙印を押された私は「一般雇用は、あなたに向いていない」とハローワークの人に言われ、障害者雇用の有期契約社員の求人を出していた今の会社に入社した。
私は、このままでいいのだろうか。