神は我々を試しているのか?(短編小説)
神が実在し、また、その存在が信仰によって成り立っているのであれば、その存在は、やはり、物質界に干渉できるだけの、物理的な存在であるはずだ。
つまり、物質界に影響を及ぼすために、何らかのエネルギーを消費していると推測できる。
では、そのエネルギー源は何か?
それはおそらく、人間の精神だ。
人間は、様々な感情を発露する生き物である。喜びや悲しみ、怒りや恐怖といった感情は、人間にとって不可欠なものだ。しかし、この感情が過剰になれば、人間は精神的に病んでしまう。そこで、その過剰な感情エネルギーを、消費しているのだと考えられる。
だが、もしそうだとすると、神は、人間に精神的エネルギーを供給していることになる。なぜ、そんなことをする必要があるのか? もちろん、人間をコントロールするためだろう。そして、その支配には、「恐怖」という要素が非常に重要なのだ。
宗教家たちが、しばしば口にする、「神の愛と試練」という言葉は、実は、ここに端を発しているのかもしれない。
さらに言えば、神が人間に精神的なエネルギーを供給する理由は、もう一つある。それは、人間が持つ「負の感情」を、エネルギーとして回収することだ。
これは、私の想像に過ぎないのだが、神というのは、もしかすると、一種のコンピュータのような存在なのかもしれない。
例えば、A社のB君がある商品を買うと、C社D社から、それぞれ、一定量ずつ、お金が支払われるとする。A社は、それを仕入れて販売するわけだが、このとき、A社が支払う金額のうち、何割かは、B君の購入額から差し引かれるわけだ。
つまり、B君が買った商品の代金の一部が、そのまま、神への供物として納められるのである。
B君は、当然、購入した商品を気に入ってくれるはずなので、B君にもたらされる「負の感情」もまた、非常に質の高いものになる。これが、いわゆる、「お布施」の正体なのだろう。
ちなみに、この考え方でいくと、A社よりも、B社の方が、より多く儲けることになる。なぜなら、A社は、B社の購買額の一パーセントしか利益を上げていないのに対し、B社は、B社の購買額の十パーセントを稼いでいるからだ。
まあ、それはさておき、ここで注目したいのは、「負の感情」とは、何もネガティブなものだけではないということだ。
よく考えてみてほしい。たとえば、恋人に振られたり、失恋したりしたとき、人は、必ず、大きなショックを受けるはずだ。しかし、そのとき、果たして、その人の持つポジティブな感情が全てなくなってしまうだろうか? 答えは否だ。
どんなに辛い経験でも、それが過ぎれば、いずれ、思い出に変わる日が来る。いや、むしろ、時間が経つにつれ、ますます強く記憶に残るようになるかもしれない。
そう考えると、人の持つ感情の全てが、神への供物となるわけではないことが分かる。中には、プラスになるものも含まれており、逆に、マイナスになるものもあるのだ。さて、ここまで読んできて、もう気付いた人もいるかもしれないが、神がもたらすものは、物質的なものではなく、もっと精神的なものである可能性が高い。ということは、神という存在自体が、精神的なものと言えるのではないだろうか。
そして、そうであるならば、物質界に干渉するために消費されるエネルギー量は、ごく微量であり、かつ、人間の精神に影響を与えることができるだけの影響力を持っているということになる。言い換えるなら、神は、人の思考に直接影響を与えることができ、また、人が抱いている強い感情を増幅させることができるのだ。
以上のように考えると、人間が抱く、あらゆる感情――喜怒哀楽はもちろんのこと、恨みや嫉妬といった負の感情までもが、神にとっては、とても重要なエネルギー源であるように思える。
では、どうして、神は、そのようなことを行うのだろうか? 考えられる理由は一つしかない。
すなわち、人類を支配しやすくするためだ。
まず、前提として、この世界において、最も力のある存在は何かと言えば、それは間違いなく人間だ。これは、誰もが認めるところだろう。
実際、私たちは、これまで、数多くの動物を殺し、あるいは利用して、生活を豊かにしてきた。さらには、他の惑星にまで進出し、そこで多くの資源を手に入れてきた。これらはすべて、私たちの祖先が、長い年月をかけて成し遂げた成果なのだ。
このように考えていくと、神の存在などなくとも、私たち人間は、自分たちの力で繁栄していくことができるように思える。事実、これまでにも、何度か、そういう時代があったはずだ。
だが、実際にはそうはならなかった。なぜかといえば、そこには、二つの理由が挙げられると思う。
第一に、神がいなければ、人間同士の争いを止めることはできないということ。第二に、たとえ、どんな環境であろうとも、生き抜いていける生物は、地球上に存在しないであろうということだ。
これらのことは、おそらく、現在の地球の状況を見れば明らかだと思う。現在、世界の人口は七十億を超え、しかも、そのほとんどが、都市部に集中している。つまり、彼らは皆、狭い空間に押し込められているのだ。このような状態が長く続けば、当然ながら、様々な問題が発生することだろう。
もちろん、食糧不足の問題もあるだろうし、水の供給が滞れば、伝染病などのリスクが高まることになる。さらに、人口密度が高くなればなるほど、犯罪発生率も高くなるはずだ。他にも、自然災害による被害なども考えられよう。確かに、そういった問題は、決して軽視できないものだ。しかし、それでもなお、私たちが生きているのは、やはり、神のおかげなのである。もし仮に、何の力も持たない普通の人間だけで世界が構成されていたなら、今頃、人類は滅亡していたに違いないのだから。
要するに、人間に生存本能がある限り、そして、それを司っている脳の機能が強化されている限り、人々は争うことを止めないだろうということだ。現に、私は今、こうして文章を書いているわけだが、この行為もまた、私の持つ生存本能の一つに他ならないのである。
だから、もしも、神が人々に生きるための知恵を与えなければ、きっと、人類の歴史は今とは違ったものになっていたはずだ。いや、そもそも、人類の文明すら生まれなかったかもしれない。そうなると、いったい誰が、この世界に誕生したのか? 言うまでもなく、神様だ。
したがって、結局のところ、すべての原因は、神にあると言えるのかもしれない。少なくとも、私にはそう思えるのだ。なぜなら、人間が生まれてから現在に至るまでの間に蓄積された負の感情は、全て、神のエネルギーとして消費されているはずなのだから。
いや、もしかすると、それだけではないのかもしれない。もしかしたら、神は、人間たちを試しているのではないか?
「お前たちが本当に生き残るべき存在なのか?」と……。