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「みんな違ってみんないい」とみんなが口を揃えて言う怖さ

自分が経験したことのない立場には、考えが及ばないのは人間の常であると思う。だから、私自身は、自分が母親になるまで「子供連れの人」の気持ちを考えたことがなかった。悪気なく、全く知らなかった。

それまで当たり前にできていたことに対して、全てにハードルが上がるというか。行きたいところ一つにしても、子供と一緒だと・・・とまず考えてしまう。特に、夜に出かけるのが好きだったし、お酒を飲むのも大好き。でも、それは小さい子供と一緒だとまず無理になってしまった。

夫と交代して・・・という手もあるのだが、(その時はまだ離婚してなかった)夫の帰りはいつも遅く、あまりその辺のことに関しては、協力的ではなかったので、出かけるにしても自分でなんとかしなければいけなかった。

じゃあ、お昼にカフェに出かけよう!
となっても、ここでまたハードルが上がる。おしゃれなカフェや、ランチビールの飲める店・・・は、都会まで出ないとない。そして行ったとしても「子供連れて入っていいのか・・・」まず不安がよぎる。そして、そこまでして出かけて行っても、帰って来たときには、心は満足でも体がヘトヘトになってしまうのは目に見えているので、一歩が出ない。ぐるぐる考えた結果、

「・・・やっぱやめよう」

となるのだ。


この感覚の根底には、社会が「自分を受け入れてくれるのか」みたいな不安があると思う。
『子供連れて店に入ると、嫌がられるかな』
『子供が泣いたら、うるさいと言われるのではないか』
今思えば、考えすぎていたなとは思うが、割と多くの人が、こういう話をしたときに「わかる!」と言っていたので、みんな考えているのだろう。


日本の風潮なのか「迷惑をかけてはいけない」といい聞かされて育って来たから、もう自分がそこに存在しているだけで「今、何か迷惑になっていないか」みたいに気にする大人が大量生産されている気がする。そして、その大人がまた自分の子供に「迷惑をかける生き方をしてはいけない」と毎日呪文を浴びせて育てる。


そうやって、大人になった人間たちは、自分が“標準的”なところから外れていることに対して、無条件に敏感になる。子供を連れているとか、体の一部がないとか、性別がどうとか。「意識しないように、意識する」みたいな、ヘンな感じになってるとき、たまにないですか?人によって感じ方も様々だと思うので、そう感じている私もまたマイノリティかもしれないけども。

私が感じている部分。違和感の根底の部分。
「違いは、個性」尊重しよう!みたいな。なぜわざとクローズアップする?

違いは、個体差だ。それ以上でも以下でもない。
ただの、事実だ。

子連れは、確かに不便。
身体的に、不便な部分がある。
性別が、思ってたんと違う。体と一致していない。

ふ〜ん。

そう、それ、「ふ〜ん」で、ええやん。と思う。
そやんな、不便なときもあるよな〜。うん。

特に、身体的に不便な部分がある人とかに、過剰に「個性です!」とか行ってアプローチするのは、自分の感覚として違和感がある。
「みんな違って、みんないい!だから、大丈夫!」
そこに敏感になっている人たちが、自分の不安を抑圧しようとして、過剰に気にしているように感じる。
何事も平たくしたいのかなと思う。「みんな一緒」という世間の枠にはめていこうと、結局、そうしたいのかなと思ってしまう。
人と違うことは、不安。自分の考えが人と違うことは、一見恐怖だ。
でも、それを当たり前に認めた先には、本当の安心がある。


うちの店は、「親子カフェ」と言われることが多い。
が、実は私自身は「親子カフェではない」と言い張っている。(笑)
コンセプトは、「大人が楽しめる店」であり、そこにはどんな人も含まれる。ゆえに、子供がいてても気兼ねなく来て欲しいからキッズスペースを設けていると言ったところだ。

もちろん、子連れの方に喜んでいただけるのは嬉しい。「親子で行ったけど、私も楽しめたし、子供も楽しんでいた」といわれるのは最高の褒め言葉だ。自分自身の不便さを解消しようと思って始めたカフェなので、そこを共感していただけるのは本当にありがたい。が、大前提として、あくまで普通のカフェでありたいので、男の人が一人で利用していただくのも大歓迎だ。カフェ好きの男子とか、ふらっと女の人一人とか、大人の人にもめっちゃ来て欲しいと思う。

「親子カフェ」じゃないと安心して出かけられない世の中の方を変えてみたいと思う。ただ目の前の“一人じゃ不便”というところに、どんな立場の人も当たり前に手を貸せる世の中に。そこに過剰な感謝も、見返りもいらない。


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MIU
読んでくれてありがとうございます。 ふと思った時に、心のままに書いています。 よかったらまた読んでください。