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「みつばちの子」とヒロシマ

1945年青森師範学校を卒業した鈴木喜代春は南津軽郡前田屋敷国民学校、竹館村葛川中学校を経て1947年9月黒石小学校に赴任した。1950年からは3年5組の担任となり翌年6月学級文集「みつばちの子」1号を発行し、お便り帳から発展した短い言葉を詩の形にした全員の「詩」を載せた。その頃、教育関係の本がでると黒石町の古い書店であるソフニ書店は小学校に本を持ってきてくれていた。そして鈴木は1951年原爆を体験した少年少女たちの手記を集めた『原爆の子~広島の少年少女のうったえ』(10月岩波書店刊行)と出会う。鈴木はこの本を学級文庫「みつばち文庫」に入れたが子供用に造本されていないため2日、3日と読み聞かせを行なった。そして発行されたのが学級文集「みつばちの子」4号(せんそうと平和)だった。

この「みつばちの子」4号は広島文理科大学(現・広島大学)学長に就いていた長田新にも届いていた。そのことは1953年9月18日に発行された『原爆の子にこたえて』「原爆の子にこたえて・みつばちの子たちから」(編者・長田新、牧書店)の中で生徒の飯口昭子、根岸忠等の詩を載せていることや10月25日発行の雑誌「改造」増刊号・日本を動かす1000人の中の〈原爆をつくる人・こわす人〉の〈起ち上がる萌芽〉の中で山岸忠の『おとな』と題する詩を紹介していることでわかる。

そして、この動きが1952年9月1日に発行された『詩集 原子雲の下より』(峠三吉/山代巴・編/青木書店)にも関わってくる。峠三吉は3月に新日本文学全国大会出席のため上京中、列車内で喀血し静岡日赤病院に入院。その後5月退院帰広後、直ぐに原爆の詩編纂委員会を結成した。そして詩集への作品募集の「おねがい」を発行し、その中に「みつばちの子」の飯口昭子の詩を載せた。手書きの一枚の紙には説明はなくただ〈青森縣黒石小学校四年 飯口昭子〉とある。原爆の詩編纂委員会の中に長田がいた広島文理科大学の生徒がいたことや5月に結成された「日本子どもを守る会」(初代会長・長田新)の副会長に黒石市の秋田雨雀(「みつばちの子」に感銘を受けたひとり)の名があることからなんらかのかたちで「みつばちの子」4号は長田から峠へと伝わったと考えられる。
峠三吉35歳、鈴木喜代春27歳、長田新65歳。

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