カフェインで人は死ぬということを中学生は知らない
夏休みが始まった
我が家の中1の友達数人がうちに泊まりに来た。
中学生になって初めての夏休みで浮かれ切っているひよっこどもは無邪気に
「今日はオールすんねん、お母さん、邪魔せんとってや」
とか言うてきやがる。
「別にかまへんけど、ご近所さんもおるし、うるさくせんとってや。それから汚したら片付けて。あと無理はせんと、しんどなったら寝ーや」
とだけ言って、好きにさせることにした。
近所のスーパー銭湯からの帰り、コンビニで買い物をするというので寄った。
「何買うたん?」
と見せてもらうと、袋の中には大量のモンスターが。
――こんだけあったら起きてられるやろ
「カフェイン中毒には気ぃつけや」
――え、何それ?
「カフェイン摂りすぎたら、気持ち悪くなったり頭痛くなったり心臓がいつもよりバクバクいうてしんどなったりするねん。ひどいときには死ぬこともあるんやで」
――え、死ぬん?どれぐらい飲んだら死ぬん?2本ぐらいなら大丈夫?
「それはわからん。体小さいとその分ちょっとの量で中毒になるし、おばちゃんなら大丈夫な量でもあんたらは死ぬかもしれんし」
――え、じゃあ飲まへんほうがいい?
「けど飲みたいんやろ?ほな絶対これは守って。
ちょっとずつ飲むこと。
モンスターばっかり飲まんと、水も飲むこと。
気持ち悪くなったらすぐやめること。
水はほんましっかり飲んで。
万が一やけど、頭痛いとか心臓のドキドキがおさまらんとか言う子がいたら、どんな夜中でもいいからおばちゃん起こして。すぐ病院連れてくから」
これでちょっと怖くなったようで、中学生たちは本当にちびちびとモンスターを飲んでいた。
それで無事、全員体調不良も起こさず、オールして帰っていった。
おかげさまで、我が家の中1はその日17時過ぎから爆睡だった。iPadで遊んでると思ったら、iPad抱えたまま寝落ちしていた。この子が寝落ちするの、7年ぶりぐらいに見たわ。
憧れる気持ちはわかる
クリエイターたちがエナドリをがぶ飲みしながら作業したりしている投稿なんかを見ていると、なんかそういうのに憧れて自分もやってみたくなる気持ちはわかる。
夜更かしや徹夜がなんとなく大人の象徴というのは今も昔も変わらないように思う。私たちの頃にもコーヒーやエスタロンモカで夜更かし、というのはあった。
知らなきゃ気をつけようもない
私自身は、カフェイン中毒になった人間を見たこともあるし、エナドリでの死亡事故のことも知っているし、無理な生活を続けていて心身の健康を損ねたり命を落としたりしたクリエイターも何人か思い浮かぶ。
だから、若いクリエイターたちが無理をして作品を生み出しているのを見ると、親目線で本当に心配してしまう。
けれど、彼らを純粋にあこがれの目で見ている、彼らよりも若い世代の子たちは、そういうのが「かっこいい大人」に見えたりするわけで、たとえ彼らが体や心を壊して表舞台から消えても、エナドリ飲んで頑張ってる「かっこいい」姿と、体を壊したことが結びつかない。
カフェインで死ぬなんてことも知らないし、人は寝ないと死ぬってことも、中高生にはピンとこない。だから、いくらでも睡眠時間を削って頑張れると思ってしまえる。
私だって、高校時代にエスタロンモカで吐き気が止まらなくなった同級生を見てなきゃ、実感として「カフェインやばい」とは思わなかった気がする。
だから、知っている大人が伝えなきゃいけない
憧れる気持ちはわかるし、やってみたい気持ちもわかる。
禁止したら、隠れてやるだろうということも、その結果危ないことが起きたときに隠そうとして余計大ごとになる可能性があることも、経験上わかる。
だから、今回私は、
「それはやめとき」
とは言わなかった。
その代わり、起こりうる症状と、予防法と、万が一の時に大人を頼ることを伝えた。
自分たちの行動にどういう危険があるかを知り、そうならない方法を知り、発生時の対処法を知っておけば、被害をなくしたり、減らしたりすることができる。
言葉で伝えることが大事なんだと思う
たぶん、中高生のやらかすやばいことを全て事前に阻止するのは無理だ。
「ダメ」って言われたことはやりたくなるし、ちょっと危ないとわかっていることも「自分は大丈夫かも」って思っちゃうし、まずいことが起きても自分で何とかできると思っているのが中高生だ。35年前の私そのものだ。
大人ができるのは、その行動の因果を伝え、いざというときには助けるから相談するように伝えることだけだ。
「こんなこと言わんでもわかるやろ」とは思わないようにしている。
うちの中1からはしょっちゅう
「そんなんわかってるからいちいち言わんといて」
って言われるけど、それでも言う。
たとえ知っていることでも、言葉にすることで再認識して、注意の度合いが高まるから、言うことは決して無駄ではない。
目が届かない範囲が増える中学生だからこそ、言葉だけは届けようと思う。
言葉なんて、反抗期の彼らには余計に届かない、とは思わない。
心に届かなくても、耳にさえ届いていれば、記憶のどこかに残る。
困ったときにそれを思い出して助かったということが、35年前の私にもたくさんあった。
だから私は、とにかく彼らの耳に、言葉を届けるのだ。