恋、わずらう #5 砂時計
前回までのお話…
ふたりで飛び出したセミナー会場から新宿駅までのわずかな時間…お互いに”つり橋効果”だとわかっていても、惹かれゆく心に歯止めがかからない。出会いは偶然なのか、それともそれを必然に変えるのか…
悶々と巡る感情の波は渦を巻き、それは来るときに見た埼京線の眼下に流れる荒川のようでもあった。僕らは手を取り合い、向こう岸へと続く橋を一歩ずつ歩んでいた…
◇◇◇
―― セミナー最終日の朝。
二日泊まり、もうチェックアウトが迫っているというのに、僕は今更ながら部屋の窓を開けてみた。
ビルの隙間から小さく見える空はどんよりとした曇り空で、正面のビルにぶつかって跳ね返る風は、起き抜けのTシャツ1枚だった僕の首元に容赦なく襲いかかってくる。
刺すような冷たい風に首をすくめ、慌てて窓を閉め、編み込みのカーディガンを急いで羽織り、そして身震いした。
起きてから点けっぱなしのTV…トランプ大統領来日のニュースもそこそこに、お天気アナのかわいい声が流れてきた。
「今日の最高気温は10℃以下で、正午からはお天気が崩れる地域もあるようです。お出掛けされる方は折りたたみ傘を持って、どうぞ暖かいい格好で…」
画面の中には真っ白なモフモフの格好に暖かそうなイヤーマフを着けた娘が、ちょっと寒そうにビルの屋上でニコニコしている姿が映っていた。
―― 身支度を整えフロントへ急ぐ。
まだぼんやりと、昨日見た彼女の俯いた寂しげな表情と、屈託のない笑顔の両方を思い浮かべている。
お世話になったホテルをチェックアウトした僕は、ガラガラとキャリーバッグを引きずりながら会場であるビルへと急いで向かっていった。
―― 最終日のセミナー。
まずは<人は人が怖い>という話だ。
「あなたはエレベーターにひとりで乗っています。ひとりのときのあなたは自由で、心に余裕があり、何なら歌でも歌い出したい気持ちです」
笑い声がチラホラ。
「途中、エレベーターが止まってもうひとり乗り合わせました。あなたは何故か突然スマホを取り出して、目を泳がせます。そうです…あなたは人が怖いのです。自分を知らない人が、自分のテリトリーに入ってくることが不安で不安でたまらないのです」
「途中から乗り合わせた人はどうでしょう…その人もあなたに背を向けてエレベーターのボタンを見つめています。そう、やっぱり人が怖いのです」
「基本、人は人が怖いものです。でも、それは、あなたの、ただの、先入観に過ぎません」
「さて…」と、講師から課題が出された。
「それでは隣の人とペアになってくださーい。ペアになった人の目を見て、そーう、目を離してはいけませーん。そのままーそのままー。そのままOKを出すまでずっと見つめ合ってくださいね ――」
その日は最初から彼女の隣へ座ることができていた。探すことなく、偶然でもなく。それは彼女が着ていたコートを置いて席を確保してくれていたから。そして、遅れていった僕に「んもうっ」て頬を少し膨らませて、お互いプッと吹き出すくらい…
もうふたりは、ひとつだった。
「はいっ 始めっ ――」
掛け声に反応して、会場中に照れの空気がサアッと広がってゆく。
僕らも、ほんの少しだけ照れながら見つめ合った。
茶髪が目の上でパッツンと切り揃えられ、茶色い瞳が少し潤んでいる。コンタクトをしている彼女は、視力の悪い人特有のキラキラした瞳なのだ。
人は恥ずかしさを紛らすため、必ず顔に手を持っていく。彼女は僕を見つめながら前髪を気にして、耳に髪をかけ直し、そしてちょっとだけ笑みが零れる。見つめる僕も、眼鏡をかけ直し、鼻をかき…きっと目尻はさがったままに違いない。
5分ほど経っただろうか… パンッ―― と、手の鳴る音とともに課題は終了した。
彼女は、またも僕のお腹に軽くグーパンチを食らわせて、そして笑った。
会場内に安堵が広がってゆく。人の目を見て話すって、けっこう大切なことなんだ。
セミナーは、またひとつコマを進める…
それは僕らの時間も終わりに向かっているということ。
僕は昨日同様に紙切れを手に取り「メール教えて」と書いて、彼女に手渡した。
彼女は「あとでね…」と、僕にしか聞こえない小さな声で呟き、その紙切れをリュックに仕舞った。
―― このセミナーの後はすぐグループ行動になるため彼女と離れてしまう。最後の1コマはこのセミナーを運営するスタッフとともに、次の新しいセミナーへ参加するための説明会という悪魔の時間が設けられていた。
何で昨日一緒に帰ったとき”LINE交換”しなかったんだろう…
セミナー中はスマホを取り出すことが出来なくて「アドレスを紙切れに書いてもらう」というアナログな方法しか、そのときの僕には思いつかなかった――
―― 4時限目。それは本当にセミナーの終わり…
少し遠くの席から後ろを振り返り、僕を見つけ、嬉しそうに胸の前で小さく手を振る彼女。
―― もっと、もっと話したい。ふたりでどこか遠くへ行ってみたい…
この抑えきれない衝動をどうしたらいいのだろう。一緒に食事をする…渋谷の街を歩いたり、一緒に東京タワーに行って…
いままで生きてきた時間に比べれば、それはたった三日間のことだけど、僕らは揺れるつり橋の上でしっかりと手を繋ぎ、支え合って歩んできた。
愛の確認なんてしない。言葉で契らなくても、増してや身体を交えるなんてことに何の意味もなく、すでにふたりはひとつになっていた。
出会いは偶然なんかじゃない。
生きているなかで、こんなにも濃密な時間…それはきっと必然と言うのではなかろうか――
でも…
でもその時が来れば彼女は中国へ帰ってしまう。
―― 離れたくない。
そんなどうしようもない気持ちを抱えたまま、最終セミナーは終演を迎えていた。
セミナー終了後、グループの面々と握手を交わす。イライラの話しを聞かせてくれた先生とは特にしっかりと。このメンバーも三日間行動を共にした大切な仲間だ。少しばかりの感慨がある。
僕は惜しみつつ別れを告げ、すぐさま彼女を探しはじめた。
改めて会場を見渡すと、次回のセミナーへ誘導しようと躍起になったスタッフたちが、受講を終えた人たちを何人もで取り囲み、次々と席へと座らせ、何やら強引に話しを繰り広げている。
―― そんな僕もスタッフに取り囲まれる始末。
次から次へと現れるスタッフにウンザリしながら断ってゆく――
―― もう、もういい加減解放してくれ ――
あっ――
少し離れた席に彼女を見つけた
手を振る…まだ気づかない…
ごった返す人の波をかき分けて、なんとか彼女の元へたどり着こうと足掻く。するとその横から先日の女性スタッフ石川さんが突如現れた。
石川さんはいち早く彼女に声を掛け、「コウさん、こっちこっち…」
と、彼女の手を引き連れ去ってゆく。
石川さんに連れられてゆく彼女…
「コウさんっ――」
僕の声に反応する…
僕に気づいた彼女は、嬉しそうに、でも少し困った顔をして、握りしめていた紙切れを頭の上でひらひらと振りながら
「ごめん――待ってて――」
と、唇に思いを馳せ
そのとき 僕は
「外で――」
と、精一杯の想いを飛ばすしかなかった。
人の波に逆らえないまま僕は会場の外へジリジリと押し出され、そのとき遠目に見えた彼女は、すでに数名のスタッフに囲まれていた…
―― 彼女はひとりであの難局を乗り越えられるだろうか…
いま僕は、ロビーのベンチに腰掛け、もう中身が空になっているペットボトルをずっと握りしめている。
スマホに目を落とす。23時55分が埼京線川越行きの最終だ。
すでに23時を大きく回っている。駅までは頑張れば10分と掛からずたどり着けるはず…それでも。
チラチラとこちらの様子を伺う警備員…
警備員の目を気にした僕は、止むなくビルの外で待つことにした。
外に出る…
外は、いつからなのか小雨が降り始めていた。
「折り畳み傘…か…」
と、こんなとき彼女なら絶対「もうっ」て頬を膨らませてリュックから傘を出してくれるんだろうなあ…なんて考えていた。
そぼ降る雨に濡れながら、キャリーバックに腰掛け、ビルのロビーを遠目に盗み見る。
何度も、何度もエレベーターから降りる人を確認する…
過ぎゆく時間
もう二度と会わないだろう見知らぬ人たち
次のエレベーターに乗っていたら…
彼女に僕の想いを伝えよう
……
もし次のエレベーターから彼女が出てきたら………
思いっきり抱きしめよう。誰に見られだっていいいじゃないか
……
もし次の――――――――
時間だ。
ごめん――――
僕は小雨のなか、静かに駅へと歩き出していた。彼女が追って来ないかと、何度も、何度も振り返りながら…
―― 出会ったその瞬間から別れのカウントダウンは始まっている。
神様は、僕たちふたりに透明な砂時計を渡したのだ。それがどれくらいの大きさか、ふたりにはわからない。ただ、ふたりが出会ってからの想い出が、逆さまにした砂時計からゆっくりと硝子の底に降り積もってゆき、やがてその降り注ぐ砂は残像だけになり、そうして最後の砂が落ち、硝子の向こう側をはっきりと映しだしてしまったいま、僕たちは終わったのだ――
―― 都庁を越え、僕はもう振り返らなかった。昨日ここをふたりで歩いたとき、こんな結末を僕が選ぶなんて考えてもみなかった。
彼女と、あと一歩を踏み出すことに躊躇した僕は、その手を振りほどき、ひとりで橋を戻ろうとしている…
―― そのときの新宿駅西口はまだ賑やかで、ただ、そのキラキラと輝くネオンに、いま僕は色を感じられないでいた。
昨日別れた改札口。
今日は、ひとりで通り抜ける…
くるっと振り返って、
僕は、胸の前で小さくバイバイした。
◇◇◇
物語のはじめにつづく…