人でなしとろくでなし
ひとでなし。
大きい人でなしから、小さな人でなしまで、ひとでなしは、いつも遠くに、身近に、存在しているものだ。
ろくでなしと人でなし。優越をつけるなら、圧倒的に人でなしの方が「間違っている」と言う点で優れていると思う。ろくでなしは、もしかしたら改心の余地があるかも知れないけど、人でなしには心変わる材料が見当たらない。
人でなしは、終わりまで人でなしを貫いてしまう。自分が人でなしである事に、気づけない。それが人でなしの、人でなしたる由縁であると思う。人でなしが修復される事は、なかなか難しい。故に、人でなしはこの世界に、いつまでも、人でなしとしてはびこり続ける。
戦争における、人でなしはどうだろうか。一体誰が戦争を始めるのだろう。ろくでなしは戦争にまで考えが及ばない。しかし、人でなしは個人の利益の為だけに、すべてを犠牲にする事を目的とした考えを及ばせ、躊躇なく戦争のわざわいに踏み切れる。
妄想で敵を造り、敵の誰かを殺し破壊する。敵から抵抗する力を奪い、敵が持つ自分の欲しい何かを、権限無しに、際限なく略奪する。それが自分の安心であれ、権利であれ、富であれ、名声であれ、自分勝手に敵をねじ伏せ、我が物顔で略奪を繰り返し、ついには自分が妄想で造った敵をとことんひざまずかせ、ついには虐殺にまで至る。人でなしは狂った王となる。
人でなしは自分を王とし、崇拝を求める。その為、誰かの血が流されようとも、自分の血さえ流される事がなければ、万事作戦は順調で完璧。どれだけ敵味方の血が流されようが、それは決して自分の責任ではない。
すべては、自分が妄想で作り上げた敵の責任であり、自分は被害者。
仕方なく戦争を始め、仕方なく敵を殺し、仕方なく略奪しているだけ。
人でなしの心は凍結を維持し、凍えるような極寒の中でも寒さを感じる事が出来ない。むしろ、人々を震え上がらせる恐怖の極寒こそが、闘志を燃やす原燃材なのである。
政治と汚職の世界での、人でなしはどうだろう。誰もが自分の健全なる思想を表現しようと政治の世界に入り込む場合も少なくはないとは思う。
しかし、ここは、人でなしと、ろくでなしの、るつぼ。ここの世界では理想はすべて反故にされてしまい、志は土足と言う利権で踏みにじられてしまう。
汚職は記憶の中には残れず、誤魔化しと改ざんは日常茶飯事。悪と善の定義が逆さまな世界。事実と真実は、闇の中のカラス、真実は確かにそこに存在するのだが、決して姿を見せてはならない。見つけられてはならない。見つけてはならない。だから、利得の強奪が横行し、我先にと利権を貪り、真実は否応なく排斥され、排除され、個人の利得と富の中に隠ぺいされてしまう。
その隠ぺいに心痛める正しい人がいたとしても、その人達の口は封じられ、ついには死へと追いやられる。
政治は人を殺し、殺された人達の血塗られた床が、多くの政治家達の足を、時には滑らせてはいるが、そんな事はお構いなし。
彼らは自分が流させた、他人の血で自らの墓穴を赤く染め尽くす。これが政治の世界。
利権、権力、富力がこの世界のすべてであって、真実は異臭を放つ汚物の様に奥深く無造作に廃棄され、埋葬される、真実を語るものの血が当然の様に今も流され続け、蛇口から噴き出す。
ろくでなしが成長した、人でなしがこの世界のリーダー達であり、もはや、人とは言えない無欠の人でなしでなければ、この世界で存在する事は決して許されない。
小さな人でなしは、どこにいるのだろうか。それは身近にいて、数は多い。戦争と政治の世界を縮小したような身近な世界では、不当に訴えたり、訴えられる行為を行ったり、小さくとも、人でなし行為は常に横行している。
悪態をつく者、騙す者、平気で嘘をつく者、自分の事だけしか考えない者、弱者を食い物にし、自分だけの利益を追求し達成する者。それによって他人が不幸になろうが、どうなろうが知った事ではない。
自分自身が弱者であるが故に、そのはけ口を、もっと弱い者へお構いなしに吐き散らす。
意外と、ある程度の立場にある人達が、無差別に、弱い者を当然の様に食い物にし、自分の個人的わがままな欲望を満たしている。そんな人でなし達も、自分が王なのである。
被害者の泣き寝入った涙の川で、彼らは心地よく身体を冷やし、笑いながら水浴し、身を弱者の血と涙に浸しながら、呪われるべき自分に気づく事なく、富と権力の余韻を味わっている。
弱者は自分の為の踏み台にしか過ぎず、弱肉強食にある本能でしか生きていない動物と同じ有様。彼らは人ではない。
人でなしが、ろくでなしになる時、弱者に対する憐憫の霊がその人に取り憑く。
人でなしが、ろくでなしに昇格すれば、もしかしたら、ろくでなしが解消される場合もある。その人は、まっとうな人として余生を送ることが出来るかも知れない。
人でなしから抜け出る事は難しいが、ダイナマイトの様な何等かの刺激で、ある時、人でなしは、ろくでなしになれるかも知れない。
ろくでなしになれれば、後はその人が、人でなしの被害を受ける側としての意識を持ち、人でなしが何であるかを自分で解明する事が出来るかも知れない。そうなると、人でなしであったろくでなしは、はじめて、人でなしが何であったかを悟る。
そして、それに一旦理解を及ばせれば、人でなしにまで回帰する事を、もう、その人は望まない。故に、ろくでなしの自分を、更に発見する為、ろくでなしでない場合を、その人は掴もうとする。そしてそれが実現達成されれば、そのろくでなしは、やっと本来の人としての、人そのものに戻る事が出来る。
人でなしから昇格すれば、ろくでなし、そしてろくでなしから昇格すれば、人への道が現れて来る。もう、人でなしでも、ろくでなしでもない。人でなしが、人になれる。人として認められると言う奇跡を、その人は稀に味わうのである。
人がなぜ人でなしになるのか、なったのか、は誰にも、本人にもわからない。人でなしは自分が人でなしであることについて、多くの場合は気づけない。そして権力を持った大きな人でなしは、世界を血に染める。
見える所は平和であっても政権の中にある、人でなしも、多くの場合、利権と既得権利にすがり続ける限り、自分が人でなしであることに、気づくことが出来ない。
だが、身の周りに存在している小さな人でなし達は、そんな大きな人でなし達を見て、ある時気づく。
大きな人でなしは、小さな人でなし改心の為に存在している。
私も、もしかして、あの大統領の様に、あの指導者の様に、あの政治家の様に、もしかしたら、人でなしなのではないだろうか。
大きな人でなし達の存在は、小さな人でなし達に警告を与え、人でなしである事の実態を見せているのだと思う。
人でなしは、もしかしたら自分なのかも知れない。
世界で表され、戦争に、政治に、紛争に余念の無い、人でなし達が、私達に、その現実の行為によって無言の警告を与えている。
決して自分達を目指さない様に、決して、人でなしの高見にまで到達する事を望まない様に、万が一、人でなしが改心し昇格すればろくでなしとなり、ろくでなしが心を入れ替えれば、人となり、人に戻れる。
人は最初から、人でなしではなかったはず。元々の私達は人であったはず。と言う事は、人でなしも、ろくでなしも、人に回帰する事ができる可能性がある。そうなれば、この世界は住みやすくなり、人が人としての平穏な世界を経験する事が出来る。
せっかく、私達が生きているこの世界は、理想郷であるべきではないだろうか。たとえ、人でなしや、ろくでなしが横行していたとしても、この世界は理想郷でなければならない。
本来、人が人であったように、人でなしではなく、ろくでなしでもなく、人そのものがこの世界の住人であったはず。この理想郷には人が住むべきである。人でなしやろくでなしは、ここの住民登録をすべきではない。
その現実の矛盾への答えが「最後の審判」と言う形で行われる事は間違いない。そして皆、その確実な時に向かって、私達は時代の中をゆっくりと歩かせられている。
世間の、人でなし行為を、毎日、目の当たりにさせられながら・・・。