神風特別攻撃隊① 古関裕而の最高傑作 軍歌『鳴呼神風特別攻撃隊』
古関裕而の数ある軍歌の中で私がベスト・ワンだと思うのが、『鳴呼神風特別攻撃隊』。
初めてラジオから流されたのがもう戦争末期の1944年11月ということもあって、有名な『露営の歌』『暁に祈る』『若鷲の歌』ほどの知名度はありませんが、それらを凌ぐ傑作だと思っています。
最初に聴いたのは、三鷹 淳が戦後になってカバーしたこちらのバージョン。
これはこれでなかなかよく出来てはいますが、軍歌ベスト5に入れるほどではありませんでした。
ところが、最近になって三鷹版がオリジナルの半分をカットした短縮版であることに気づきました。
それではと、何気なく春日八郎の完全版を聴いてみたら、びっくり仰天。 最初に聴いたときはそれほどでもなかったのですが、2回目に画像と歌詞を見ながら聴いていたとき、三鷹版ではカットされていた3番の後半で不覚にも思わず涙がこぼれそうになりました(「爆音高く基地を蹴る」の混声合唱のところです)。
この完全版を聴いて、優れた軍歌がもつ人の心を感化する力、洗脳される恐怖、そして、聴く者を感動の涙とともにひとつの方向に押し流していく「罪深さ」等が初めて本当に実感できたのです。
そう、本質的に軍歌が嫌いな私でさえ(私だから?)聴けば聴くほど「何ていい歌なんだろう。」と思わされ、うっかりすると無意識にあちら側に引っ張って行かれそうになるほどの強力な魔力を秘めた曲なのです。
今、聴いてもこうなのですから、まして、戦時中、あの異様な国をあげての天皇制カルトファシズムの熱狂的な的嵐の中で、この曲を若い飛行兵たちが聞いたらどうなるか?後の文章でも再度触れますが、彼らに対する影響力には、計り知れないものがあっただろうと想像されます。
アップテンポの行進曲風の編曲で力強さを加えていますが、曲そのものは古関裕而らしい美しくも物悲しいマイナー調の旋律。
面白いことに『エール』でも取り上げられていた『露営の歌』、『暁に祈る』、『若鷲の歌』などの軍歌もすべて哀調を帯びたマイナーコードで作られた大ヒット曲。
それにしても、続けて聴いてくると、やはり古関裕而の才能恐るべしで、彼の作った軍歌が国民に及ぼした影響力を考えると、戦後、「古関裕而は戦犯なのではないか。」と取りざたされたことも頷けます
また、軍歌研究家辻田真佐憲さんは否定していますが、軍国主義者山田耕筰が自分の地位を脅かす存在になるかもしれないと、古関裕而の才能を恐れていたという『エール』の描写に賛同したくるほどの天才ぶりです。
古関裕而の盟友野村俊夫の歌詞もメロディに負けていません。
その悲壮美で聴く者の魂を激しく揺さぶり、陶然とさせ、感動の涙で人々を軍部の望む方向へと押し流していく、軍歌に要求される必要条件を十二分に満たした大変「優れた」ものです。
歌詞があまりにも真に迫り過ぎていて、これで果たして国民の戦意高揚に役立ったのかと心配になるほどです。
特攻隊員を皇国守護の英雄、死しては護国の軍神としてこれ以上はないと言うほどの美化に成功していますが、半面、歌詞の端々から、最早「十死零生」の体当たり戦術に頼らざるを得ない所まで追い詰めらてれている絶望的な戦況が、隠しようもなく聴く者にひしひしと伝わって来てしまうのです。
ある意味、もうお先真っ暗で、限りなく悲痛な内容の歌詞をよく許可したものだと不思議に思うのですが、大本営はもうこの時点で本土決戦を想定しており、この曲が「神風特別攻撃隊の壮挙の後に続け!国体を守るために一億火の玉となって総員特攻することを覚悟せよ!」という帝国臣民への プロパガンダでもあるのだとしたら、すんなりと腑に落ちます。
この曲で歌われた最初の特攻作戦について、少し説明します。
近代国家で初めて行われた大規模な組織的特攻作戦の端緒となったのは、1944年10月のレイテ沖海戦で実施された海軍航空隊敷島隊5機による特攻作戦。関行男大尉率いる敷島隊が、たった5機の爆装零戦で小型護衛空母「セント・ロー」を撃沈、同型艦3隻を損傷させるという快挙を成し遂げたのです。何と5機中4機が命中、命中率実に80パーセント!
しかし、関大尉たちの上げた大戦果はある意味、その後に続く膨大な悲劇の幕開けになってしまいました。
もしも、最初の特攻隊が期待以下の戦果しか挙げられなかったのであれば、航空隊上層部が特攻という名の自殺攻撃にあれほどに執着し、のめり込むことはなかったかもしれないのです。
少数派ながらも、特攻は非人道的な「統率の外道」として作戦に反対した指揮官たちもいたのですが、「大戦果」の前には沈黙せざるを得ず、ついに「外道」が「本道」になってしまいました。
予想以上の大戦果に狂喜し、舞い上がった陸海軍航空隊首脳部はこの大戦果で特攻作戦への自信を深め、この調子でどんどん特攻機を送り込んでいけば敵機動部隊を撃滅し戦況を逆転させることも夢ではないと夢想し、ついに全力大量特攻に踏み切ります。
しかし、 実は敷島隊の大成功は、 三つの好条件に支えられた例外的なものでした。
敷島隊の突入時、米護衛空母群(タフィー3)は、直前に起きたサマール沖海戦で戦艦大和を中心とする栗田艦隊の激しい砲撃を受けて 護衛空母ガンビア・ベイ が撃沈されるなど大混乱に陥っていたため、幸運にも一時的に米軍の上空警戒網に穴が空いた状態になっていた事。
関大尉らが優れた飛行技術をもった当時としては数少ないベテラン・パイロットぞろいであった事。この二つの好条件がそろっていなければ、あれほどの大戦果は到底望めなかったはずなのです。
更には、米機動部隊が究極の非人道的作戦である組織的自殺攻撃など全く予想していなかった事。
この作戦成功が極めて稀な幸運によってもたらされた例外的ものであった事は、その後二度とこのような奇跡が起こらなかった事実からも明らかです。残念ながら有頂天になっていた航空隊指揮官たちが、大戦果が挙げられた例外的要因を「戦訓」として深く分析することはなかったようです。
後述のように、逆に甚大な被害の原因を詳細に分析し、戦訓に基づいて素早く特攻隊対策を構築し成果をあげたのは米軍の方でした。
味を占めた陸海軍航空部隊は他に有効な戦術が見当たらず瀬戸際まで追い詰められていた事も手伝って、フィリピン戦以降も沖縄戦、九州沖航空戦、日本近海と夥しい数の特攻機を送り出しました。
しかし、その頃には歴戦の熟練パイロットの大半が戦死してしまっており、隊員たちの多くはまだ錬成半ばで送り出された、飛行時間も短く、飛ぶのがやっとという「若鷲」どころかヒヨコ同然の飛行予備学生や少年飛行兵ばかりでした。
また、初期の自殺攻撃の衝撃から立ち直った米海軍は、すぐさま有効な特攻機対策システムを考案。特攻機を空母の遥か手前で探知するため、多数の駆逐艦を機動部隊の周辺に配置してレーダーの網を張るピケットラインを構築。
そのため、出撃した特攻機は米空母機動部隊の遥か手前で高性能レーダーで誘導された多数の迎撃戦闘機群に捕捉され、その多くが米空母の姿を見る前に撃墜されていくようになります。
また、運よく米機動部隊上空まで到達した少数の特攻機も米軍の新兵器「近接信管が仕込まれた対空砲弾」により次々に撃墜されて行きました。多数の特攻機が凄まじい対空砲火で火だるまとなり撃墜されていく悲惨な光景は、米軍側の記録フィルムにしっかり焼き付けれています。
閑話休題 この時、血気にはやってはいても必要な飛行時間を大幅に短縮した促成教練のため、本当は操縦技量に自信のない若い特攻隊員たちを励まし、奮い立たせるのに大いに役立ったのが、彼ら自身の壮挙を歌ってくれた特攻隊応援歌『鳴呼神風特別攻撃隊』だったのです。
空疎な基地司令官の訓示や激励の言葉などより、自ずとヒロイズムを掻き立てられるこの曲を聞かせ、歌わせたほうが士気の向上に遥かに役立ったであろうことは自明です。
軍部にとって野村・古関コンビが作った軍歌は、その哀切な歌詞とメロディによって若い搭乗員たちを感涙とともに陶酔させ、洗脳してヒロイズムを喚起し、彼らを自らの命にかえても皇国を守らんとする「護国の鬼」に変えてしまう極めて効果的で有用な「兵器」でした。
軍歌という「兵器」が本物の兵器とは比べ物にならないくらい安価であり、軍部が要求すればいくらでも短期間で量産することが可能だったのですから、なおさらです。
そして、その要求に応え全力を挙げて多くの「優れた」軍歌を量産し、大日本帝国の戦争遂行に協力し続けたのが「軍歌の覇王」と呼ばれた古関裕而だったのです。
朝ドラ『エール』ではぼかされていましたが、自らが作曲した軍歌によって多くの若者を進んで戦地に赴かせた古関裕而。彼はその影響力の大きさから言っても、軍国主義に心酔していた大物作曲家山田耕筰を凌ぐ音楽界最強の戦争極力者であったと言っても過言ではないでしょう。
士気をあげ、死の恐怖をやわらげるため、出撃前、特攻隊員たちに覚せい剤ヒロポン(メタンフェタミン)が与えられたことは、言うまでもありません。
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