ディスコブームの光と影
1960年代にジャズ喫茶やゴーゴー喫茶で流行っていたモンキーダンスやゴーゴーダンスを経て、1970年代に入ると新宿や六本木に「カンタベリーハウス」、「ツバキハウス」「メビウス」などの大規模ディスコが開店。1975年、ヴァン・マッコイの「ハッスル」の大ヒットをきっかけに世界的なディスコブームが日本にも波及します。
その人気が頂点に達したのが1978年。ジョン・トラボルタの出世作、映画『サタデーナイト・フィーバー』(1977)が公開されて大ヒット。空前のディスコブームが巻き起こり、ごく普通のパブが翌日にはディスコ店に豹変という現象が頻発し、あっという間に全国に数千のディスコ店が乱立しました。
ビージーズ「恋のナイトフィーバー」(1977)
10年前のGSブームの時がそうだったように、音楽業界もこのブームに乗り遅れまいと各社競ってディスコ関連曲を乱発。ハードロックバンドの「キッス」から、果ては三橋美智也までヒットチャートもディスコ一色に塗りつぶされるような有様を呈しました。
「しかし、奢れる○○久しからず」で(ちょっと意味が違うかな?)この爆発的ブームもそう長くは続かず、ある事件をきっかけに日本では突然終焉の時を迎えます。(これもGSそっくり)
空前のディスコブームの熱狂に頭から冷水を浴びせたのが1982年に発生した「新宿歌舞伎町ディスコナンパ殺人事件」。ディスコ通いしていた14歳の女子中学生二人が男に殺傷されるという未解決の事件です。
少女たちが男と知り合ったのはディスコではなく近くのゲームセンターだったものの、殺された少女が首とアキレス腱を切られていたという残忍性が世間に強く印象付けられ、「ディスコは危険な所」「不良の溜まり場で犯罪の温床」というディスコに対するバッシングが一気に高まりました。
世論の強い批判を受けて0時以降の深夜営業を禁止する「風営法」が施行されるに及んで、ディスコブームはあっという間に雲散霧消。数年後のバブルの熱狂と崩壊を彷彿とさせる出来事でした。
その後、1980年代末~90年代初頭の「マハラジャ」、「トゥーリア」、「ジュリアナ東京」などの高級ディスコ店を中心とした「バブリー・ディスコブーム」が起きますが、ことらもバブル崩壊とその後の経済不況の深刻化によってあっけなく終焉。
ディスコという名称自体も廃れて「クラブ」に変貌して行きました。
いつもの前置きはこの位にして、ここから1970年代~80年代ディスコミュージックの名曲を聴いて行きましょう。
バンザイ「ビバ・アメリカ」(1976)
ヴァン・マッコイ&スタイリスティックス・オーケストラ「ハッスル」(1975)
ヴァン・マッコイとスタイリスティックス・オーケストラ「ディスコ・ベイビー」(1975)
オリエンタル・エクスプレス「セクシー・バス・ストップ」(1976)
ホット・ブラッド「ソウル・ドラキュラ」(1976)
ホット・ブラッド「怪傑!ソウル・キャット」(1976)
スタイリスティックス「愛がすべて」(1975)
ホット・バター「ポップコーン」(1972)
ジンギスカン「ジンギスカン」(1979)
ジンギスカン「めざせモスクワ」(1979)
ボニー・M 「怪僧ラスプーチン」(1978)
江利チエミ「ウスクダラ」(1954)
ボニー・M 「サニー」(1976)
元歌は、こちら。 ボビー・ヘブ「サニー」(1966)
エラプション「恋の片道切符」(1979)
ニール・セダカ「恋の片道切符」(1959)
平尾昌晃「恋の片道切符」(1960)
エラプション「悲しき街角」(1980)
デル・シャノン「悲しき街角」(1961)
ドナ・サマー「ホット・スタッフ」(1979)
スリー・ディグリーズ「ソウル・トレインのテーマ」(1974)
レイフ・ギャレット「ダンスに夢中」(1978)
アース・ウィンド&ファイアー「ブギー・ワンダーランド」(1979)
エミリー・スター・エクスプロージョン「悲しきバラライカ」(1980)
こちらは、榊原郁恵によるカバー。
エミリー・スター・エクスプロージョン「サンチァゴ・ラヴァー」(1979)
エミリー・スター・エクスプロージョン「メリー・ブラウン」(1980)
エミリー スター ・エクスプロージョン「ベイビー・ラブ・ミー」(1980)
エミリー・スター・エクスプロージョン「カサノヴァ」(1982)
ヴィレッジ・ピープル「Y.M.C.A」(1978)
ヴィレッジ・ピープル「イン・ザ・ ネイヴィー」(1979)
サンタ・エスメラルダ 「悲しき願い」(1977)
後編ではディスコブームに影響を受けたり、積極的に取り入れたりした歌手やバンドを取り上げます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・