人形アニメの傑作① 川本喜八郎『道成寺』
能や歌舞伎、人形浄瑠璃、映画で有名な『安珍清姫』の伝説を題材にしたコマ撮り(ストップモーション)アートアニメ。
台詞は一切無く、笛の音の旋律とシタール等を用いた音響効果のみ。
前半の人形の顔は能面のように動きませんが、自分を裏切った安珍に対する清姫の愛憎を、照明による光と影、髪の乱れや所作、撮影アングル、音響効果等で巧みに表現しており、まるで人形が「演技」しているように見えます。
恋情が、失望から怒り、そして憎悪へと変わっていく清姫の悲しみが、ある意味、人間の役者が演ずるよりも深く、より哀切に観る者の胸に迫って来るのです。
安珍が日高川の向こう岸へ渡ったことを知った清姫は、渡し守に自分も渡して欲しいと希います。 着物を差し出して懇願するシーンでは人形の表情も動くのですが、観ているこちらまで感情移入して、切なくなるほどの迫真の「演技」。
恋に狂った清姫が大蛇に変身する有名な日高川のシーンはセルアニメとの合成で、当時としては非常に高度かつ手間のかかる技法を用いており、大蛇が荒れ狂う川を渡る際の凄まじい音響との相乗効果で迫力に満ちたシーンになっています。
道成寺に逃げ込んだ安珍を大蛇となった清姫が隠れた梵鐘ごと焼き殺す場面で、大蛇が血の涙を流すのが哀れです。
どれほど安珍に恋し、帰還を待ち侘びていたことか。 好きであればあるほど、裏切られた時の悲しみや心の傷もまた深い。 それは“業”となって心をさいなみ、やがては人を鬼に変えてしまうほどのもの。
清姫の恋情と仏の道との板挟みになって、身を滅ぼしていく安珍もまた不憫です。 焼き尽くされて白骨と化した安珍が、折からの花吹雪と共に灰となって吹き散らされていくラストも、人の世の無常を感じさせ深い余韻を残します。
高畑勲や宮崎駿が、ポール・グリモーの『やぶにらみの暴君』(『王と鳥』)からセルアニメの技法を学んだように、川本喜八郎は若い頃、単身チェコに留学して、巨匠イジー・トルンカからコマ撮り人形アニメの技法を学んだそうです。
『イジー・トルンカ・スタジオ』
川本喜八郎がわずか10数分の作品を作るのに2年以上もかかるコマ撮り人形アニメに生涯挑み続けたのは、セルアニメやCGアニメでは表現できないものがあったからですね。
膨大な時間と夥しい手間をかけて生命を吹き込まれたコマ撮りアニメの人形たちは最早単なる「ひとがた」ではなく、「人」と「もの」とのはざまの世界で「現し身」となり、生き生きと自らの物語を紡いで行きます。
CGなどと比べれば決してスムーズではないカクカクした動きの中に、人間味や手作り感といった捨てがたい独特な味わいがあるのです。
『道成寺』の次に作られた『火宅』 (1979)も『道成寺』 と同じく人間の“業”を描いていますが、こちらは仏教説話を題材にして います。
川本喜八郎『火宅』
「実はこの世も 火宅(火焔地獄)であっった」というラストは、はっと我に返って、自分が生きている現実世界のありようを別の視点から見つめ直すきっかけにもなるかもしれませんね。
『道成寺』と比べるとナレーションという「直接表現」に頼りすぎという印象は否めませんが、映像、音楽・音響等による「間接的技法」だけで難解な仏教思想を表現するのは困難だったのでしょう。
武満徹の音楽、さすがです。
『道成寺』と同じ題材を1960年に島耕二が『安珍と清姫』という題で映画化しています。作品としては『道成寺』に遥かに及ばない残念な出来栄え。清姫が大蛇に変身するスペクタクルシーンも超チープで、その上、何と「夢落ち」。ただし、清姫役の若尾文子は美しく、色々な意味で目の保養になりましたが。安珍役の市川雷蔵もイメージ通りのはまり役でした。
アニメ以外の仕事としては、NHK『人形劇三国志』(1984)と『平家物語』(1993)の美術・人形デザインが有名ですが、こちらも後世に残る素晴らしい仕事で、今でもファンが多いと思います。
人形時代劇『平家物語』第3部 第02話 「惨!倶利伽羅峠」
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