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懐かしのディスコ・ミュージック名曲集(後編)~グロリア・ゲイナー、キンクス、ブロンディ、ショッキングブルー、アバ、浅野ゆう子、長山洋子他30曲

「懐かしのディスコ・ミュージック名曲集(前編)」は、こちらです。

「前編」で、重要な3曲を忘れていたので、リンクしておきます。

グロリア・ゲイナー「恋のサバイバル」(1979)

                                  アイリーン・キャラ「フラッシュダンス」(1983)

                                  アイリーン・キャラ「フェーム」(1980)                 


前編ではディスコ・プロパーの名曲を一通り網羅しましたので、後編はディスコブームに影響を受けたり、積極的に取り入れたりした歌手やバンドを取り上げます。

キンクス「スーパーマン」(1979)

1979年のアルバム『ロウ・パジェット』からシングルカットされ、全米36位と健闘しました。1970年の「ローラ」(全英1位 全米7位 )、「エイプマン」(全英5位 全米33位)以来全くヒットがなく、どん底時代のキンクスにとって前年の「ロックン・ロール・ファンタジー 」(全米30位)に続く全米トップ40入りは、バンド存続の上でも有難かったに違いありません。                                キンクスは1982年の「カム・ダンシング」の予想外の大ヒット(全英10位 全米4位)でようやくカムバックを果たし第2の黄金期を迎えますが、残念ながらそれも長くは続きませんでした。

キンクス「スーパーマン」(ライブバージョン)

1981年の初来日コンサートで、「ロウ・パジェット」と共に演奏していました。この1980年のライブ(「ワン・フォー・ザ・ロード」)を観ても分かるように、日本公演でもディスコ調は皆無で演奏はかなりハードなアレンジでした。

ローリング・ストーンズ「Miss You」(1978)

ビージーズがサントラを担当した「サタデーナイト・フィーバー」に刺激されて作られ、久しぶりの全米ナンバーワンヒットになった曲。     「俺たちだって、ディスコミュージックなんて簡単に作れるんだぜ。」というところでしょうか。この頃までビートルズが存続していたら、同じように作ったでしょうかね。まあ、ビートルズだって「ブルースロックブーム」の頃にジョン・レノンが「ヤー・ブルース」を作っていますが。

ブロンディ「ハート・オブ・グラス」(1979)

ブロンディの出世作で、初めて米英チャート1位にランクイン。元々は1975年に録音されたスローナンバーでしたが、アップテンポのダンスミュージックにアレンジし直してしてリリース。折からのディスコブームに乗って、大ヒットしました。

ブロンディ「コール・ミー」(1980)

リチャード・ギアが主演した映画『アメリカンジゴロ』のテーマ曲で、作詞デボラ・ハリー、作曲ジョルジオ・モロダー。                ブロンディ最大のヒット曲で、6週間、全米チャート1位になっています。

ブロンディ「銀河のアトミック」(1980)

原題は「ATOMIC」で、原発や原爆を歌ったメッセージソングかと思ったらさにあらず。「ATOMIC」はアレの比喩表現で、歌詞全体もなんだかなあという感じです。曲中でデボラ・ハリーが「ATOMIC」と呟く所なんかは、なかなかドスが効いていていいのですが。                 英国チャートでは1位になっていますが、米国では39位止まりと「コール・ミー」の次のシングルとしては物足りないセールス。メロディなどのサウンドは1位になってもおかしくない出来栄えなので、やっぱり歌詞が足を引っ張ったのでは?

アバ「ヴーレ・ヴー」(1979)

「アバ」は基本的はユーロビートですが、シングル曲では「Gimme! Gimme! Gimme!」と共に最もディスコ寄りに振れた曲ではないでしょうかね。

アバ「マネー・マネー・マネー」(1976)

歌詞は風刺にまで昇華しておらす、金持ちへの羨望とほんのちょっぴりの皮肉といったところでしょうか。なにしろ、「アバ」自体が大金持ちですからねえ。

アバ「ヘッド・オーバー・ヒールズ」(1981)

ディスコ調の曲ではありませんが、アバの楽曲の中では最も美しいメロディの曲という事で。         

Kiss 「 ラヴィン・ユー・ベイビー」(1979)

全米チャートでは11位止まりでしたが(それでもミリオン・セラー)、日本を含む世界中で大ヒットしました。
発売当時、「おやおや、ハードロックバンドまでがディスコやるのか。」と正直驚きましたが、メロディは「キッス」の楽曲の中では一番だと思います。

DD Sound「1, 2, 3, 4, Gimme Some More」(1977)

                                  浅野ゆう子「セクシー・バス・ストップ」(1976)

浅野ゆう子の歌唱力の問題もあって原曲に比べるとあまりインパクトがありませんが、これでも彼女のシングルでは最も売れた曲なのだそうです。

ピンク・レディー「ピンク・タイフーン」(1979)

ヴィレッジ・ピープルの「In The Navy」のカバー。           この曲以降、ピンク・レディの人気は徐々に下降していきます。次に書くように世界進出を狙ってアメリカに出稼ぎに行った事も影響しているのでしょうが。

ピンク・レディー「キッス・イン・ザ・ダーク」(1979)

ピンク・レディー全米デビューシングル。全米チャート最高位は37位で、坂本九の「スキヤキ」(「上を向いて歩こう」3週間全米1位)以来、33年ぶりに「ビルボード」トップ40に入った曲として有名です。米国向けらしくピンク・レディーの曲の中では異色で、とて垢抜けしていますね。                                 
日本での人気に陰りが見え始めた頃、「キッス・イン・ザ・ダーク」全米リリースと並行して米3大ネットワークのNBCと契約。『Pink Lady and Jeff』(1980年全6回。第6回は未放送)というバラエティ番組に出演しました。  水着で出ているとか男性と一緒にお風呂に入っているシーンがあるとかで日本では一部で「国辱番組」との悪評が立ちました。  

ざっと見た所では可もなく不可もない内容で、視聴率も最高14%と日本人歌手初の冠番組としてはまずまずといったところでしょう。アジア人が3大ネットワークで冠番組を持つ事自体稀有な事だったのですから、彼女たちの挑戦はもっと評価されてもよいのではと思います。

荻野目洋子 「ダンシング・ヒーロー (New Dance Ver.)」(1985-2017)

登美丘高校ダンス部が広めた「バブリーダンス」の影響でリバイバルヒット。もっとも、この曲がリリースされた1985年は、後のバブル時代とは真逆の「円高不況」真っ只中でしたが。

長山洋子「ヴィーナス」(1986)

ショッキングブルーの大ヒット曲のカバーで、アイドル歌手時代最大のヒット曲。

長山洋子「ユア・マイ・ラヴ」(1987)

「ヴィーナス」の次のシングル曲で、ドイツの女性歌手パティ・ライアンのカバー。前作程ではありませんが、こちらもそこそこのヒットになっています。

パティ・ライアン「 You`re My Love, You`re My Life 」(1986)


いつもの脱線で、ショッキングブルーを2曲。

ショッキングブルー「ヴィーナス」(1969)

当然ですが、時代が違うのでショッキングブルーの原曲にはディスコ調は全くなく、正統派ロックです。この曲をディスコ風にアレンジした長山洋子のプロデューサーの目の付け所がよかったのですね。         ショッキングブルー最大のヒット曲で全米1位をはじめ、世界中でヒットしました。続く「悲しき鉄道員」「悲しき恋心」もヒットし、1971年には来日公演を行っています。

ショッキングブルー「ショッキング・ユー」(1971)


「君に会いたい(You Are A Teaser)」                 

ジャガーズの英語ディスコカバー。

アパッチ「ソウルこれっきりですか」(1976)

実体のないスタジオ・ミュージッシャンによるこの曲がオリコン2位と予想外の大ヒットとなった為、急遽作られたダミーバンドが「アパッチ」なのだそうです。この曲の大ヒット後、「柳の下の泥鰌」を狙ってヒットメドレーをディスコ風にアレンジしたレコードが続々発売されました。      

エボニー・ウェップ「ディスコお富さん」(1978)

春日八郎の大ヒット曲の片言日本語カバー。エボニー・ウェップはアメリカ・メンフィス出身のグループで、この曲の発売当時は、赤坂のディスコ「ムゲン/MUGEN」で歌っていたそうです。

こちらが、春日八郎の元歌。

何度も映画化されている歌舞伎の世話物「切られ与三郎」を題材にした当時としては珍しいリズム歌謡。ドラムスの代わりに手拍子が入っているのが面白いですね。

三橋美智也「夕焼けとんび(Disco Version)」(1979)

ディスコブームを受けて自身の大ヒット曲をディスコバージョンにアレンジして再発売した「ディスコ歌謡」で、寺内タケシのプロデュース。
 
                           
三橋美智也は全盛期には美空ひばりと人気を二分する大歌手で、「古城」(300万枚)、「リンゴ村から」(270万枚)、「星屑の町」(270万枚)、「哀愁列車」」(250万枚)などミリオンセラーだけで30曲もあります。総売り上げ枚数何と1億600万枚以上!美空ひばりでさえ8000万枚台ですから、足元にも及びません。                                

さすがにGSがブームになる1960年代中期以降は曲調が古臭いと人気も低迷しましたが、1970年代末に「ミッチー」との愛称でラジオ番組のDJを始めてから大復活。「サタデーナイトフィーバー」のジョン・トラボルタそっくりのいで立ちで「激麺」のTVCMに出演して話題を呼ぶなど、本人も大張り切りでフィーバーしていました。

                                  三橋美智也「噂のディスコボーイ」(1979)

リメイクではなく、全曲新作で構成されたディスコ歌謡アルバム『激れ!ミッチー』収録曲。三橋美智也の場合も「B級GS名曲集④」で取り上げた都はるみや村田英雄がGSブーム時代に無理やりGS歌謡を歌わせられたケースと同じだと思ったら大間違い。このアルバムのように完全オリジナルのディスコ歌謡を何曲も作っているところを見ても、三橋美智也本人の意欲が感じられます。自分のヒット曲のディスコ化もやらされたというよりは、自ら進んでかつ楽しんでやっていたと言った方が正解だと思います。

脱線ついでに、最後は三橋美智也の代表曲を2曲+三味線エレキ1曲で〆。

                              三橋美智也「怪傑ハリマオの歌」(1960) 

1960年から1年間以上も放送されたTVドラマ『怪傑ハリマオ』の主題歌。 ドラマを制作したのは、『月光仮面』の宣弘社。単純な「勧善懲悪」とアクションを前面に押し出したドラマ構成は、『月光仮面』とよく似ています。

三橋美智也&寺内タケシとバニーズ「黒い瞳」

三味線の名手でもあった三橋美智也が、エレキ三味線で寺内タケシとコラボした曲。自分の殻を自ら打ち破り、新しいものに挑戦しようとする熱意は、見上げたものです。

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