深く入り込むということ
こんにちは、たかひとです。
人が何かに深く入り込むということは、同時にそれだけ傷つくリスクを抱えることになります。
なぜなら人は深く入り込むほど、失ったときに喪失感を抱えて傷ついてしまうから。
学生時代に友人関係を作ろうと思っても、話すことへのコンプレックスから、深く入り込むのを避けていた節がありました。
自分のことを理解してくれそうな人を相手にしても、今ひとつ深い関係に入り込めない感じがしたものです。
入り込めないというより、自分で入り込まないようにしていた感覚かな。
何かに夢中になりそうなときに、自分で自分にブレーキをかけてしまう。
もうこれ以上傷つきたくないという感情は、本当に欲しいものであればあるほど、無意識の内に予防線を自分に張ってしまう気がしました。
どうしても、いつか失くしてしまうことを意識してしまうんでしょうね。
イソップ童話の「すっぱいブドウ」のように、それ大事じゃないし、と自分に思わせていた感じでした。
また、スムーズに話せるようになりたいという想いが、いつの間にか、自分の性格の弱さをカバーするために、強い人間になりたい、という考えにすり替わっていました。
その上、「燃えて生きたい」などという想いにも囚われて、中学時代の親友の誘いもあり、武道に強烈に入れ込むことに。
でも、そんな風に価値観が一色に染まるときは、とてつもない努力ができますが、危うさも内包していますね。
現に、大けがをしてリタイヤすることなります。
話は変わりますが、日本のスポーツでは、退路と選択肢を断ち、一心不乱に競技にまい進するのが美徳とされますよね。
しかし、それによって燃え尽き症候群になってしまう人もいます。
人は、それが全てだと思えば思うほど、上手くいかなかった反動で途方に暮れてしまうの。
でも、本当は、夢中になれた日々自体がとても貴重で確かに輝いていたはず。
この境地に至るには、時間が必要だと思いますが。
私にとって一番輝いていたと言えるのは、吃音の苦しさから現実逃避するためにのめり込んだ映画でした。
当時入れ替え制などなく、シートが硬い名画座で好きなだけ過ごせた日々です。
言葉だけでなく、感情を出すのも苦手な子どもで、
「俺には感情がないのではないか」などと思っていた自分が、暗い映画館の中で、気づいたら涙がドバーって出ていました。
「自分にも感情があったんだー」と思えた瞬間。
以来、映画の魅力に惹かれました。
その後、落ち着いてからは、感情移入できる作品だけでなく、様々なことを考えさせてくれる作品にも触れる機会が増えました。
対人関係などは深入りは慎重にするべきでしょうが、こと芸術関連においては、納得のいくまで深く入り込みたいと思っています。