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「トコヨノモリ」という抽象な物象。
こんにちは。
今日は夏至の日でした。そういえば昨日はとある場所で、早く日が暮れないかなぁ、なんて思いながら過ごしていました。明日が夏至の日だというのに虚しいことだ、なんて考えながら。
この頃、とある場所で、森を創るひとを手伝っています。美術家の竹内良亮さんなんですけど。
#トコヨノモリ 進捗。粗削りから刀を持ち替えて整えていく感じです。 pic.twitter.com/HNcxr2tXxO
— 竹内良亮ryosuke takeuchi (@takebamb) June 14, 2020
もう二年ものあいだ彼はずっと森をつくっています。森といっても美術作品なので、種を蒔いたり、水をやったりという感じではありません。床を張って、壁を立てて、それを何層にも塗ったり、枝葉を仕立てたり、苔を敷いたり。そうやってずっとコツコツ作られてきた空間に、明かりを灯して、効果音をつけて、その制御をして。照明家の渡辺佳奈さんと一緒に、僕らは舞台演出のような効果をしつらえていきます。
この森にくると、いつもたくさんの話をします。プラトンではありませんが、じっくりと言葉の往復をする、対話ですね。
いわく、
トコヨノモリは無をつくりたいんです。
と。
最初期の会話からしてこれなので、以後はそれこそ膨大な思索が必要でした。
僕らは普段からテクニカル・スタッフとして舞台芸術に関わることが多いので、主題やテキストを読み込んで、そこに解釈を加え、自分の領域に引き込んで技術的な解として答えを返す、みたいなことを日常的にしています。いわゆる「表現」という作業にあたると思うのですが。仕事として継続的に取り組んでいるからには、必然的にある種のテクニックの蓄積というものがあります。でも、あまり伸ばしたことのない方向に手を伸ばすとき、あるいはずっと遠くまで手を伸ばすとき、それまでの見知った方策が当たり前のように使える訳ではありませんでしたね。
何かを受けて、何かを返す。足し算のほうが比較的に容易です。もとある物事に、さらに何か新しい解釈や要素を加えて、それを返す。ハンバーガーにチーズをはさんで、チーズバーガーにする、みたいな感じでしょうか。引き算はすこし高度になります。チーズバーガーからチーズだけを取り出して食べるのが好きな人はいるかもしれませんが、塩気を入れ過ぎてしまったシチューから、塩気を取り除くのは難しいですよね。きっと。ジャガイモを増やす??僕の場合はしれっと胡椒をかけて誤魔化したりしますが。
トコヨノモリで無を表現する。
というのは、シチューで言えば塩分を取り除いて、さらに他のものも取り除いて、きれいに鍋を空にするようなことだと思います。どこかに鍋の中身をぶちまけても、そのもの自体は残りますよね。それだと正解にならない。だからそれに相当する解釈を探すのです。。なんか無理、だとは感じていても。
ほら僕らは沢山の細胞で出来ていて、それは分子で出来ていて、それは原子で出来ていて、それは陽子と中性子でできていて電子が回っていて、それは数種類のクォークで出来ていて、さらにそれらはエネルギーの振動なので。。そう、僕ら人間だってよく見ると単なるエネルギーの振動なんだから、森だっておんなじで。そういう意味では、どんな森を作ろうとも、それは無に等しいんじゃないだろうか。
鑑賞者がみんな素直にそんな境地にたどりついてくれればいいんですけど、それには何かしらのナビゲートが必要だろう、ということでテクニカル・スタッフの思索が続くわけですね。
宇宙の話をしたり、重力の話をしたり、時間の話をしたり、波長の話をしたり、輪廻の話をしたり、チョコパイを食べたり。そう言えば短編小説も書きました。今回の作業でいちばん苦労したところです(笑)。
仕事として関わると、様々な制約と限られた時間のなかで、必ず答えを要求されますが。その点トコヨノモリは、実験的なアプローチが可能な場だったので、いつもよりは煮詰めて煮詰めて、答えを求めながら答えを出さない、みたいな表現としての理想のような状態で作業を進めることができました。(洗練された量子状態のような、、)
風景としてのトコヨノモリ、物語としてのトコヨノモリ。二つの種類のアプローチが、もうそろそろ形になろうとしています。
もしもどこかで、邂逅(かいこう)するように森に出会ってもらえたら。そしてそこに、自分だけの密やかな物語を見つけてもらえたら。とても嬉しいなと思います。
三橋