1981夏「風の歌を聴け」撮影台本

11月に亡くなった大森一樹監督のことを冷静な気持ちで文章にするにはまだ早い気がしている。
大袈裟かも知れないが自分の個人史に密接に関わっているからだ。
公に書けないこともある。
実際、あれ以来、自分の感情がフラットなまま弾ける事がない。
来春に東西で開かれるというお別れの会が済んだら、ちょっとは心の整理もつくかも知れない。

今年(2022)に頂いた年賀状、何度かやりとりしたメール、そして9月私がマニラでロケ中に撮影監督にかかってきた電話。「いま横に白羽さんいますよ」と撮影監督がスマホを手渡してくれたのだが、撮影中で「何でこんな時に」と思ったのが正直なところ。
「はいはい、撮影順調です、頑張ってまーす」と言って撮影監督にスマホを返した。大森さんの声を聴いたのはそれが最期だった。撮影監督もまさか最期になるとは思わなかった、もっと話せば良かったと後悔していた。結局、今年は直に会えなかった。

早い気が、と言いつつ、一つだけ。40年以上前こんな事があった。

「風の歌を聴け」撮影台本
スケジュール表。1981年8月21日東京駅前ロケからクランクイン

1982年、大森監督のメジャー3作目、ATGでは「ヒポクラテスたち」に続く第2弾、村上春樹原作「風の歌を聴け」。

撮影は前年の1981年の夏の神戸。
私は高校3年生の「大事な夏」だった。
映画監督になるべく日大芸術学部を目指し、受験勉強に励んで‥‥いなかったがその意志だけは強かった。
そんな折、1980年の「ぴあ」フィルムフェスティバルの応募者だった私にその関係者のNさんから連絡を頂いた。
「風の歌を聴け」の撮影を手伝わないか。
Nさんは大森監督の学生時代からの盟友。この映画でもスタッフの一人だった。
低予算なのでボランティアに近いが、雑用係の手が足りないと。
逡巡の末、断った。「大事な夏休み」2、3週間も行けない。

私が撮影台本を持っているのはそういう事があったから。

結論から言うと翌年の受験は失敗し、浪人して翌々年に日芸に入学した。
だから「雑用係」に行っていても結局入学できたのかも知れない。
考えても仕方がないがもし行っていたら、人生違っていたのは間違いないだろう。自分の経歴に「風の歌を聴け」のスタッフとして参加、と誇らしげに書けたのかも知れない。

2013年に神戸で開かれた上映会。
この時、上映用のソフトを誰も持っていなくて私が貸した。
そして撮影の記録が掲載されていた月刊イメージフォーラム1982年1月号も持って行った。

大森さん「これ持ってないんや、貸して」と奪うように持って行った。
悪い予感がしたので「返してくださいよ」と念を押したが、いまだに返してもらっていない。
そして、もう返ってくることもない。


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