【小説】 心臓の毛を抜いた日
「あなたが買ったんじゃない」
一瞬、パラレルワールドで違う次元の人と対峙したかと思った。波子が選んだものを、英二が一括で買っていたらしい。ごく初期の、生活必需品を一気買いしたときのことだ。
何がカートに入っているかなんて、気に留めるほど余裕がなく、英二は「ドライヤーを買った日」としか記憶していなかった。閉店間際の電気屋に滑り込んで、慌てて選んだからよく覚えている。白はツヤツヤと新しい生活を誘っていた。だからその手をとったのに。
波子は専業などではない。共働きだ。なんで一括で買ったんだろう、それは夫になった喜びだっただろうか。
君を愛していた。見返りなど求めていなかった。
ただ、見返りのない愛は、俺には十年弱しか続けられない、ということなのだろう。
いつのまにか、君は俺の好きなイベントに来なくなり、俺は君のイベントに付き合わされるようになっていた。俺の旧家族には会わなくなり、親族イベントでも、妻がいるはずの俺の隣には、誰もいなかった。
子どもがほしい、と思った時期もあったが、君は子どもが疎ましいようだった。
隣に君がいてくれたら、と思う瞬間に君はいないのに、なぜかどうでもいい、楽しいだけの時間には、君はいるのだった。妻という名の友達がいるだけだと気付いた。
だから別れようと、別れたら君も楽なんだろうと思ったのに。
違ったようだ。しかも、俺がまだ心の奥底のどこか、捨て切れない部分で願ったものとも、だいぶ違った。
「私を愛してくれる人が好き」
波子はそう言っていた。付き合い始めた初期だけだと思っていた。つい最近も、同じセリフを聞いてしまったのだ。そしてついに、英二はずっとわかっていたことを言ってしまう。
「君を愛してくれる人が好きなら、君を愛さなくなれば、俺のことも好きじゃなくなるよね」
ひどいことを言う、と顔に書いてあった。ああ、君は気付いていないのか、と英二は思う。君は君自身しか愛していないこと、これが俺からの最後の愛のようなものだってことに。
俺は、白いドライヤーに別れを告げた。