【小説】 心臓に毛が生えた日
この真っ白なドライヤーとも、離婚したらお別れなのか。
英二は髪を乾かしながら、半目の自分を鏡の中に見る。届けに名前はまだない。
ドライヤーだけじゃない。この、どこで売っているのか知りもしない、肌触りの良いパジャマもだ。視界に入る歯ブラシも、タオルも、1階にある電子ピアノや片方のロードバイクも。言ってみたら、今暮らしているこの家、その中で築き上げた生活も。何もかもが、惜しいのだった。波子を除いては。
楽しい会話はできる。意思の疎通も、これだけ隣にいれば大抵のことでは喧嘩もしない。相手の好きなもの、嫌いなこと、苦手な食材、喜ぶ行動。
わかってしまったのだ。何もかもなんて言わない。むしろたった一つのことが。
俺の男の部分が要らないなら、かえしてくれ。
恋をした。行動にはしていない。英二はお調子者で、どこか生真面目で、一途だった。こんなはずではなかったのだ、「たったひとりの人」の枠、が、空いてしまうなんて。
些細なことだ。昨日までは波子のことが好きだったーー好きだと思えていたのに。断られた、それだけで何かのブレーカーが墜ちた。と、いうことは、知らずしらずの内に、英二も何かを遣いすぎていたんだろう。愛は時間を遣う消耗品、メンテナンスを怠ったのはどちらなのか。
そういえば、「あなたのことは最初から愛してなんかいなかった」って言われたこともあったっけな。喧嘩の真っ最中の、売り言葉に買い言葉。余計なことを思い出す。
「聞きたいことがあるんだけど」
「なに」
「……パジャマ、どこで買ったの」
呆れた、と顔に書いてあった。俺にとっては、人の感情なんてわかりゃしないが、波子の顔はホワイトボードだ。
君に付随するものが惜しかったんだ。君のセンス、話の内容、少し裏返った笑い声。それでいて君が惜しくないとは、どうしたことだろうと俺自身でも思う。
恋は終わってしまった。波子に対しては。
枠制度であることに、英二自身も驚いていた。人じゃないのか、関係性なのか、俺が愛しているのは。少なからぬ衝撃で、数日は何も手につかなかった。いつもなら仕事で忘れる英二も、今回ばかりは恋、そして少し冷静になってからは、自分を形作る構造に苦しんだ。
不倫という言葉は、結果であってストーリーは語らない。どんなに悩んだところで、してしまったらそれはそれ。英二はそれが悔しいと思える程度には冷静に、ドライヤーをコールドにして髪を整える。