美しい距離
ここ最近、両親それぞれの死についての記事を書いた。書く事であらためて心の整理がついたのと、亡き両親への感謝がより深くなった。2人とも病院のベッドの上で亡くなった事が、私には何よりありがたかった。昨日まで元気にしてたのにある朝ポックリとか、事故でとか、そんな突然の死には多分私は耐えられなかったと思うのだ。入院して亡くなるまで、全力で最後の親孝行ができた事、そうさせてくれた両親に今は感謝しかない。
小説でも人の死を扱っている作品は多い。この場合の死とは殺人事件とかの類は除く。私が読んだいくつかの作品では、例えば病気の家族やお見舞いに来てくれる人たちに対する想いや、亡くなった人が残してくれたメッセージを大切にする生き方や、病気と対峙して初めて自分の本当の気持ちに気づいて穏やかに死を迎える、そんな作品を読むと、死というものについてネガティブな事だけを考えるのは違うなと気付かされる。
そんな作品の1つ、死にゆく立場、看取る立場、自分がどちらになったとしても参考にしたくなる素敵なお話。
美しい距離/山崎ナオコーラ
40代で末期癌に侵された妻と彼女を看護する夫。夫は妻のために何をして何をしないのが良いのか、きっと妻ならこう思うだろうと、やってあげたい事は沢山あるのにその気持ちを抑制し、妻に頼まれてから動くようにしている。私が看護される側だったらあれこれ先にされるよりこういう気遣いのほうが”普通”に過ごせそうだと思えた。
また、自分は常に近くにいるからこそ泣くのも我慢して気丈に振る舞っているのに、お見舞いに来た人(親戚でもないのに)に帰り際に泣かれてイラッとする事もある。しかし
”泣かなかったり、言わなかったりするのは、ただの選択で、相手との距離や、権利の有無は関係ない”
とすぐに気持ちをたてかえる。妻は死を意識しながら、
”死ぬまで修行中だから。他の人や昔の自分と比べないで、あと、未来にも思いをはせないで、今の自分の環境だけを見ればいいじゃないか。”
と、痛みがあるのが今自分がいる世界なんだと前向きに受け入れている。「来たよ」「来たか」と、病室で片手を上げ合って挨拶する夫婦。とても微笑ましい。
妻が亡くなってからの夫の心境にとても共感した。さっきまでタメ口だったのが亡くなったら急に”ですます調”で話しかけたり手を合わせたり、亡くなった妻が”より神に近づいた”感がある。仏壇やお墓で近況報告したり、時には願いごとをしたりする存在になってしまった妻に距離を感じていく。しかしここでもまた気持ちのたてかえ。
”近いことが素晴らしく、遠いことは悲しいなんて思い込みかもしれない”
”出会ってから急速に近づいて、敬語も使わなくなり、(中略)妻との間か縮まってうれしかった。でも関係が遠くなるのも乙。遠くても関係さえあればいい。”
”死んだときに距離の開きが決定したのではなくて、死後も関係が動いている。”
”離れ続けているのだ。”
2人の距離(関係)を感じ続けながら生きる事が愛なのかなぁと思えた。
私たちもいつかはこんな日が必ず来る。大切な人の、肉体としての存在が無くなったとしても心の関係はずっと存在していく。どんどん遠く離れていくとしても、距離が動いている限り関係は続いている。それもまた乙。
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