![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/30440066/rectangle_large_type_2_4f732afbdb30c2764419291209282ef2.jpeg?width=1200)
言語造形と宮沢賢治
長い梅雨の日の言語造形クラス。
宮沢賢治の「なめとこ山の熊」に取り組んでいます。
言語造形をすると、からだの細胞まで
楽しい!うれしい!気持ちいい!と言っているような感覚。
呼吸が深くなるからかもしれませんが、「音」と「響き」というものが
私たちのからだに深く染み渡って、命の源にエネルギーを注いでいるような気がします。
言語造形は、私たちの物質的な口から音が外に伝わるだけではなくて、肉の耳では聞こえない音をいっしょに空間に響かせていく。
一体どうやってするんだ!と思いますが、練習するしかありません。
わたしが初めて言語造形をしたときも宮沢賢治の作品でした。
そのとき、あまりの賢治の世界の美しさに、体験したことないものを私が言語造形で表現できるのか、先生に聞いたことがあります。
そのとき、言われたのは、
「見たことのないものも、行ったことのない場所も、ことばが連れて行ってくれます。」
今なら少しわかります。
ことばの音韻、そのことば、その物語に宿る精神が、
ことばと真剣に向き合えば向き合うほどに、私の心にリアルに響いてくる。
「なめとこ山の熊」という物語にも、
そのような精神の泉から渾々と湧き出しているもの、または鳴り響いているものがあります。
それを、言語造形で伝えたいとわたしたちは思います。
今回、 賢治の注文の多い料理店の「序」を思い出しました。
わたしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、
きれいにすきとおった風をたべ、
桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。
またわたくしは、はたけや森の中で、
ひどいぼろぼろのきものが、
いちばんすばらしいびろうどや羅紗や、
宝石入りのきものに、かわっているのをたびた見ました。
・・・・
ほんとうに、かしわばやしの青い夕方を、
ひとりで通りかかったり、
十一月の山の風のなかに、ふるえながら立ったりしますと、
もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。
ほんとうにもう、
どうしてもこんなことがあるようでしかたないということを、
わたくしはそのとおり書いたまでです。
・・・・
わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾切れかが、
おしまい、
あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、
どんなにねがうかわかりません。
賢治の見た世界を、言語造形できたなら。
感じるこころ。
言語造形は、わたしたちの「こころ」をひらいていきます。
ひらかれるところに、
今まで見えなかったもの、聞こえなかった音が
滴となって落ちてくるのだと思うのです。
真実を知りたいという、誰もが持っているこの世界への問い。
その答えへの道のりは、芸術体験が欠かせないと最近強く思います。
言語造形は、ことばの芸術。
ことばを発する声や音が、その人に力を与える。
人によっては、
オイリュトミーという身体芸術からのアプローチがこころを強く動かす人、
色彩という視覚からの芸術がこころを響かせる人、
音楽という芸術からこころが解き放たれる人、様々だと思います。
わたしたちは、ことばそのもの、その音韻、響、そのひとの声に
こころ惹かれる人。
そんなひとが、言語造形に出会うのではないだろうか。
そんな仲間とこれからたくさん出会えることを、願っています。
興味のある方は、ぜひ一度体験してみてください。
次回は
8月17日(月)13:00から15:00
岩出市上岩出地区コミュニティセンターにて、行います。
お問い合わせ:mitteno20@gmail.com まで。
文:momo