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「インプットからアウトプットが生まれる」のではなく、「アウトプットからインプットが生まれる」。
新型コロナウイルス禍による外出自粛のせいもあって、ぼくの周囲でもSNSやブログなどへの投稿をはじめる人が増えた。これまで“発信”してこなかった人たちだから、はじめは妙にまじめだったり、たどたどしかったりもする。が、そこは見事なもので、投稿の数を重ね、日数を経るうちに、だんだんとクオリティが上がってくる。
メディアにはそれぞれの表現作法がある。noteならnoteに合った書きかたがあるし、TwitterにはTwitterの、FacebookにはFacebookの文化というか、ノリのようなものがある。そういう作法に慣れてくるということかもしれない(ぼくはいまだにTwitter慣れできず……)。
でも、それだけでもない気がする。なぜなら、文がこなれてくる以上に、内容が充実してくるからだ。ここには「インプットとアウトプットの関係」についてのヒントが見えかくれしていると感じる。
よく「ふだんから豊富なインプットをしていると、すぐれたアウトプットが生まれやすい」などといわれる。たしかに、かたちのうえではそうなのかもしれないが、実情としては逆なのではないか。
少し前のことだけれど、ぼくがかかわっている地域ものの学校の打ち合わせの席で、公務員のカリスマとして知られる塩尻市役所の山田崇さんがこんなことをおっしゃっていた。
「先に“こういうアウトプットしよう”と決めるから、インプットできるようになるんです」
山田さんは2012年に、シャッター化が目立つようになった地元の商店街の一角に自腹で空き家を借りて、そこでイベントをやりつづけようと決意された(「空き家プロジェクトnanoda」)。つまりは「アウトプットを決めた」。以来、生活のなかでのインプットの量が格段に増えたという。
山田さんの言葉を借りれば、ここでアウトプットをする、と決めると「日常の見えかたがちがってくる」。あらゆることを、そのアウトプットに照らしてとらえる目をもつようになり、それまで見過ごしていたような物事のなかに、インプットすべきものを見いだせるようになる。
ぼくらの仕事でもそうだ。こういう企画をやる、と、ざっくりとした出口を決めると、資料や文献の読みかたが変わるのはもちろん、それまで受け流していたネットのニュースや街で見かけたモノのなかにも、突然、ヒントを見つけられるようになる。
編集の考えかたでいえば、これは組み合わせのなかで関係性をつくっているということだ。モノやコトは、単体では意味をなさない。なにかとの組み合わせ、つまりはある関係性のなかに置かれて、はじめて価値や意味が生まれる。意識のなかにつねに「アウトプットするテーマ」を置くことで、目にするモノ、体験するコトが関係性のなかに位置づけられ、解釈しやすくなるのだ(参考:教養として知っておきたい「編集」の基本①:そもそも編集ってなに?)。
アウトプットを決めるから、インプットすべきものを見つけられるし、インプットのクオリティも高まる。そして、それが今度は、アウトプットのクオリティの向上にもつながっていく。
SNSやブログへの投稿を重ねるなかで、内容が充実してくる背景にも、同じことがあるのではないだろうか。実際、ふだんからおもしろい発信をしている人のなかには、「毎日投稿する」「100本書く」などと目標を設定して、じぶんを追いつめている(アウトプットをつよく意識している)人が多い気がする。
と、思ってはいるのだけど、ぼく自身、なかなか頻繁に投稿・更新ができずにいる。結局は、気合いの問題なのか。。インプットを増やすためにも、もう少し頻繁なアウトプットを心がけなくては……。