外向けのプロフィールには載せてない事 Part 3
さてさて、ミシシッピのELI(英語集中課程)に入って6ヶ月でついに大学入学の切符を手にしました。このELIという学校、ただ単に学費が安いだけではなく、アメリカで2番目に古い英語集中課程コースで、1947年に設立以来今でも世界中から語学留学生を暖かく迎え入れているんです!(宣伝か!?裏金とかもらってないです。はい。)
だから、当時のELIの同期達は今ざっと思い出せるだけでも、メキシコ、エルサルバドル(聞いたことなかった国名!)、グアテマラ、ブラジル、サウジアラビア、ヨルダン、キプロス、スペイン、フランス、スイス、韓国、中国、コロンビア、エクアドル、台湾、タイ、などなどから来ていてとっても国際的で本当にいろんな文化と人格に触れたのでした。
あ、でもそもそも何故僕がアメリカの大学を目指したかを話していませんでしたね。(短めに書きますよ。眠いからね!)それはね、高二でバレー部を辞めて、ご多分に漏れずその後の進路に悩んでいた時。今までバレーボール漬けの毎日で、辞めるちょい前まで自分はバレーボールが出来る会社に就職して、なんとかバレーで食っていくのだ!(ハイキュー!?)という淡いイメージを持っていたんです。。。が、それがダメになって正にお先真っ暗な時に、過去5年くらいで起こったやなこと(例えば、中学の時に母ちゃんが再婚して一緒に暮らし始めたおっさんが酒乱で暴力ふるわれたり、水戸で買い物先で不良に絡まれたりボコボコにされたり。。。家で自転車二回も盗まれたり。。。坊主でほぼ男子校だからガールフィレンド全然できなかったり。。。←当時はかなり切実)がワーっとこみ上げてきて、自分でも精神的にかなり深く沈んでいた時に、ふと気付いたんです。こんな不公平な国にいるからいけないんだ。いっその事もう日本を出よう。そしてせっかく日本を出るならドデカい夢や目標を持って命がけで挑もうと。
そんな時、学校の図書室で見た新聞の記事に国連軍のスーダンかどこかで虐殺されて亡くなった人の遺体を、国連軍の兵隊さんが引きずって葬りに行くという写真が載っていて、それを見たときに「この世の中なんて物騒なんだろう」と思ったんです。自分がバレーでレギュラーになれなくても、母子家庭で貧乏でも、普通にのうのうと平和に毎日暮らせているのに、遠い国では日々生き抜くのもままならない人がたくさんいるのだ。心の底から可哀想だなと思って、そして自分はいつかそんな困った人たちの役に立ちたい!と思い始めたわけです。その時に初めて、それが国連の仕事と分かって、そういう世界の秩序を守るような仕事をやってみたいなと心がぐ〜っと動いたわけですよ。(ワイルドだろ〜!単純だろ〜!無知って素晴らしいね。)だからバレーボールの目標はここで終わりにして「国連の職員になろう」とこの時点で決めたんです。18歳でした。
(*写真はイメージです。国連平和維持軍の隊員とハイチの子供達)
そこから国連職員になるための本当か資料とかいろいろ調べまくって、一番現実的な方法として、1)アメリカの大学で修士号を取ること、2)英語ともう一つの国連公用語を身につけること、3)国連でインターンかフィールドボランティをすること、4)国連職員採用試験に合格することを決めたのでした。
時を戻そう。。。(またぺこぱ!)
そうして、熱い夢見る男山崎満広、無一文なのでハティスバーグから一時帰国しました。1996年の6月中旬でした。(うる覚えだけど)
日本に帰ったらする事は一つ。バイトを探して9月からの学費を稼ぐ事!そこで、僕の当時知る限り一番出費が少なくて手っ取り早くお金をためる方法として選んだのが、以前お世話になって湯元キャンプ村の住み込みのバイト。日給は安めだったけど、なんせ生活費はほぼゼロ出し、給料は夏の終わりに一括でもらえるのでタイミングもバッチリ。夏まるまる3ヶ月働けば50万円くらいにはなる。それでとりあえず秋学期の学費は確保できて、生活費はバイトを探せばいけるわけですよ。夢にまで見たアメリカの大学。
その3ヶ月、奥日光で必死に働きましたよ。朝は5時半起き、夜9時半までランチと午後の休憩以外はほぼ動きっぱなし。都会から来るへんなキャンパーのクレーム聞いたり、会計やったり(←失敗してすぐ他の役に回された)、料理もしたし、バンガローの掃除とか、また大きなゴミ穴掘ったりとか。。。本当によく働いた。そして近隣の山ほとんど制覇した。そして夏の終わりがきて、予定通りに給料をもらって、大学にもどったまでは良かったんですよ。。。でもね3ヶ月母国語漬けでいるとね、英語を相当忘れちゃったんです。涙
だから、晴れて大学に入ったものの、はじめの1年は地獄でしたね。徹夜で勉強して臨んだテストで35点とか取って、図書館の最上階の一番空いてるトイレで答案用紙片手に泣いたこともありました。。。英作文、歴史、数学、宗教、天文学取ったけど、ただでさえ難しい授業のそもそも言葉が理解できないんですから!でも国連に憧れ、背外の秩序を守るという熱いミッションを持っていた僕は、ELIの時よりさらに睡眠時間を削り、毎日猛勉強をしたのでした。
ちなみにお金ないので、当時は2LDKのアパートを男5人(シンガポール人のライアンとショーウィン、香港人で今でも大親友のアンディ、ルジアナからきた黒人で精神不安定なテリーと唯一地元ミシシッピ出身で白人のウィリアム)でシェアしてて、学部の3年半(←夏休み返上で急いで卒業したからさ!)は寝室をライアンと一緒にして寝袋で寝てました。一人分の家賃は光熱費込みで80ドル!安い!(でもギリギリの生活)
そんな落第ギリギリの僕にも得意な授業が二つありました。一つはP.E. (俗にいう体育ってやつ)とスペイン語。スペイン語はELIの頃から国連公用語習得を意識して、スペイン語圏の友達とサッカーしたりパーティーに読んでもらったりして結構理解できるようになってきてたのと、そもそも英語と違ってスペイン語の発音て日本語に近いので、聞いて真似すれば発音はバッチリなわけです。この2教科のおかげでなんとか退学にはならなかったのです。
この間、もちろんバイトもしてました。学内のバイトは最低賃金(5ドル台)なので、学外で内緒で探していたら、これまた内緒で日本人留学生を探しているレストランオーナー(ベトナム人!のデイビッド)と連絡が取れました。よっしゃ!料理は得意ですから自信持って面接に行ったら、空っぽの店舗に呼ばれて、「ここでジャパニーズレストランを始めるので、内装作るところから手伝ってほしいと。。。ん?マジか! っと思ったけど、お金稼がないといけないので、もちろん二つ返事で承諾。翌日から大学と後にハティスバーグで唯一の日本食レストランSakura(ベタなネーミング!)
Sakura Japanese Restaurantの外装。因みにタトゥーパーラーが隣です。
こちらが、僕が施工を手伝った内装。精一杯のジャパニーズ感。。。
こんな巻物が流行ってましたね。たぶん今もだけど。
この頃、お寿司はもちろん握らせてもらえなかったけど、それ以外の天ぷらとか、焼き鳥とか、唐揚げとか作ってました。ミシシッピ州って、アメリカで1、2を争う貧しい州で(いつもアーカンソー州とかルイジアナ州とかと競ってる)田舎だからあまりお金持ちのグルメな人がいないわけ。だから開店当時は初めて寿司を食べるお客さんとか結構いて、散々寿司頼んでおいて、一口で「生魚臭いから他のものに変えてくれ!」みたいなクレームしょっちゅう付けられて、急いで揚げ物作ってあげなきゃいけなかったなぁ。でも何度が「この天ぷらは今まで食べた天ぷらの中で一番美味い!」って言われたこともあった。嬉しかったけど、たぶん今までなんちゃって天ぷらしか食べてなかっただけかもしてない可能性は押上駅から見上げた時のスカイツリーくらい高い。
Sakuraのバイト、授業、宿題と息抜きのスポーツに明け暮れているうちに、だんだん授業について行けるようにようになってきたのが3年生になった頃、無事に単位は取れてきた矢先、日本で母ちゃんが交通事故に遭い、仕送りが4ヶ月止まったことがあった。この時はもう諦めて日本帰ろうかと思ったね。でも、持つべきものは友達。唯一お金に困っていないルームメイト兼親友のアンディが一学期分の学費を貸してくれて、しかも「親のお金だから急いで返さなくていい。」と言ってくれた。(泣けたね。いいやつだな〜アンディ。本当に今でも感謝してる。)
それでも生活はキツかったのは事実。そこでまた運命の出会いがあった。大学のアドバイザーの一人が、キミはスペイン語だいぶ上達してきたから、交換留学の候補としてスペイン語の教授に推しておいたと言われた。え?!留学生でも交換留学できるの?そんな発想が全くなかったので驚いた。しかも、交換留学期間中はOut of State Tuition(州外の住民が払う授業料)が免除になる。これは事実上学費が半額になるわけですよ!これを聞いた時はオイラのラテンの血?が騒いだね〜! 留学先はスペインかメキシコで。すぐに物価が安いメキシコを選び、申し込みを始める。だって国連公用語のスペイン語に浸れてしかも学費が半額になるなんて行くしかないっしょ!?
というわけで、1999年の1月から7月までの6ヶ月間、僕はメキシコユカタン大学の人類考古学部に留学し、スペイン語、人類文化学、マヤ文明の歴史、マヤ語などを勉強したのでした。その間、学費が安くなったからなのか、母からの仕送りは時々途切れ、相変わらず日々の食事に困る事も何度かあったので、交換留学中も隠れてバイトをした話は、また次のnoteで。。。
最後まで読んでくれてありがとう!おやすみなさい。
つづく。。。