夫が浮気しなくても信頼します
お恥ずかしい事に、こんな題名で記事を書きながら、未だに夫の浮気ネタから離れることができない。
私「花畑みつ」という人間は、夫の浮気があってこそ花畑みつである、そう思ってきた。
私が参加するコミュニティの中で、「花畑みつ」の肩書きといえば、【4股する浮気症の男と結婚した女】だと思っていた。
アメブロでは『私、女神になります』という題名でブログを書き、はじめは夫への恨みつらみを書き連ねながら、次代に夫との関係をネタにして記事を書くようになった。
それは、自分にとっては、夫との関係を悩みながらも、人に面白おかしく伝えることで気持ちを整理する作用があった。
おかげで、随分と救われた事もあった。
自分の中で考え続けたら煮詰まって爆発しそうな時も、誰かに向かって気持ちを伝えるという作業をすると、爆発しそうな頭が少しずつ落ち着いていくのが分かった。
同時に、夫との関係の中で起こる、なかなか他の人が体験しないような事を赤裸々に伝えることが、自分という平凡だった人間を一回りも二回りも大きく見せてくれるような気がしてきた。
そう、自己顕示欲を満たしてくれたのだ。
私はずっと、平凡な人間だった。
勉強も仕事も、人よりも何か抜きん出たものがあるわけでもなかったし、もしかしたら人より優秀かもしれない、と思う事があっても、すぐに自分よりも優秀な人がいる事に気づいてその自信は失われた。
怖がりで何かにチャレンジする事から逃げてきたから、おかげで大きな挫折経験もない。
いつも落ちこぼれではない程度の、でも特別ではない人間として、人の記憶に残らないまま生きてきた。
そんな中途半端な私が、夫が浮気症でどうしようもない厄介ごとを持ち込んできてくれるおかげで、人に注目されるようになった。
それまで中途半端で面白味のない人間だった私には、思ってもみない経験だった。
夫の引き起こす厄介ごとは、私にとって真剣に悩みの種だったし、夫の浮気は私にとって真実ショッキングな出来事だった。
けれども同時に、それを赤裸々に語るとコミュニティでは注目された。
それが徐々に心地よくもなっていた。
そして、こう思った。
私には魅力はないけど、こうして夫のネタがあれば、自分の魅力として発信し続けられる。
書き出してみると、恥ずかしいな。
きっと、コミュニティの皆は私に対してそんな風に思っていなかった。
私を私として認めて、夫のネタがあろうと無くとも私を承認してくれていた。
ただひたすらに、私が私に自信がなかったのだ。
自分を疑い続けたのは私だった。
夫がいないと、夫が浮気しないと自分の価値は失われる。
そう思っていたのは私だった。
でもそれが怖くて、心の中の、自分でも気づかないところで、夫の浮気を期待していたのだ。
だから、どれほど私が夫に浮気をやめてほしい、と頭で願っても現実は変わらなかった。
私がどれほど夫を理解する事に努めても、私が私の事を理解していなかったから、夫との関係はいつまでも変わらなかった。
そういう事だったのだ。
相手を理解する、そのためには自分を理解する、それを師匠から常にメッセージとして伝えてもらっていた。
それを私は何度も反芻して、常に自分と向き合ってきた。
そして、何度も自分について理解を深めてきた。
それは間違いない。
それだけは、もう本気で自信がある。
けれども、最近そんな自分に滞りを感じていた。
これ以上気づいていない自分ってどこにあるのだろうか。
師匠が引退した今、私はどうやって自分を理解すればいいのか。
誰か、師匠の代替を探そうかと思った。
師匠の代替を見つけたら解決するのでは、と思った。
でも、師匠に最後に言われた言葉があった。
それを思い出せば、私は誰を頼るべきか、分かった。
私は私を頼るのだ。
私は私を信頼するのだ。
誰かにそれをしてもらうのではなく、自分で自分を信頼する。
自信をもつ。
信頼する。
その言葉の意味がまた新しく分かった。
私にとって信頼するとは、自分が自分の一番の理解者になるということだ。
自分と向き合うことから逃げず、まだ見知らぬ自分を見つける事を諦めない。
それこそが、自分を信頼するという事だ。
夫の浮気というネタがなくなっても、私は自分にガッカリしない。
それがなくても、私は私を信頼できる。
私は、もっともっと、自分が知りたい。
いつだって私は、自分に向き合う勇気がある。
すごくしっくり来た。
信頼するっていう言葉がようやく私の人生に馴染んできた。
大丈夫、夫が浮気しなくても私は自分を信頼できる。