歌舞伎町のレストラン ~可能性について~
新宿歌舞伎町の、或るレストラン。そこでは毎日、プロのピアニストが演奏している。が、体調不良により、急遽、代わりのミュージシャンを呼ぶことになった。そこで声がかかったのが、私だった。だが、その店がどのような場所なのか、私はまったく知らなかった。二十二歳の冬のことである。
開店前、リハーサルのために会場に行くと、艶のある髪をしたスーツ姿の男性に案内された。大きな扉を開けた瞬間、どきりとした。私には縁遠いような、豪華で巨大なホールが待ち構えていたのである。どうやらここは、有名な企業の社長やセレブたちが集う高級レストランらしい。私は場違いであることを悟った。
そもそも飲食店で演奏するということは、歌を聴かせる必要はない。BGMとして音楽が流れ、食事を楽しむお客さんの時間に、そっと華を添える役割である。いつもの私の演奏スタイルのような、想いを届けて心を動かそうという考えは邪魔になる。つまり、メッセージ性の強い曲は不向きなのだ。
これまで、飲食店で演奏をして上手くいった経験は皆無に等しい。それでも自分を成長させる良い挑戦になるはずだ。そう思って今回の依頼を引き受けた。私ならできると信じて、プロデューサーも声をかけてくれたのである。
四十分のステージを二部構成で行う。ちなみにギャラは私の経験上、かなりの高額であった。それに見合う演奏をしなければという意気込みとプレッシャーが、会場を前にしてより大きく圧し掛かってきた。
私が今回のライブに用意していた曲は、オリジナルとカバーをそれぞれ半分ずつであった。リハーサル中にプロデューサーが会場にやってきて私の演奏を聴いていた。サウンドチェックをしてPAに音のボリュームを注文する。が、何の反応もない。完全に無視をされているのがわかった。嫌な空気感が漂っている。終了後、控室に戻るとプロデューサーが待っていた。
「お疲れ。ちょっと思ったんだけどさー、オリジナル曲の〇〇〇とかやるの辞めてくんない? というかさ、今日はカバー曲だけにしない? みつるくんの歌詞、会場の雰囲気に合わなすぎるんだよね」
彼は眉間に皺を寄せながら、視線は少し下を向けている。これはまずいなあ、という表情が見て取れた。
「本番まで少し時間ありますし、歌詞を一部、変えたらどうですか? それでも駄目ですかね?」
「うん、辞めておいて。自分の曲を披露したい気持ちはわかるけど、ちょっと今回は厳しいわ……」
プロデューサーも、私に依頼をしておきながら、場違いであることを感じているようだった。だが、私にもプライドがある。私はどうしても自分の曲を演奏したかった。控室のテーブルでノートを開き、歌詞を何度も書き換えては頭を抱える。物凄く抵抗はあったが、結局、オリジナル曲のメッセージ性を薄めて、ごくありふれた、当たり障りのないものに書き換えた。それでも、演奏するべきではないのかもしれない。どうしたらよいか決まらないまま、本番を迎えた。
会場には、大勢の客が食事をしていた。ドレスコードがあるのか、殆どの人がスーツやドレス、ワンピースなどの服装をしている。
私が入場しセッティングすると、カメラを構えて写真を撮る人がたくさんいた。それほどまでに、この店のステージで演奏するのは特別なことなのだろう。客席に視線を向けると震えてしまう。これまで経験したことがないほど、自信が湧いて来なかった。
譜面台に乗せたファイルをペラペラめくり、ほんの僅かな時間、曲を考える。手を止めて、覚悟を決めた。やはりオリジナル曲でいこう。
演奏を始めると、食事の手や会話を中断してこちらを向く人たちが見えた。多くの注目が集まる。が、ワンコーラスが終わる頃には、カメラを構えていた人たちは撮影を辞めていた。それどころか、一曲目が終わった時点で、もう殆どの客は私の方を見ていなかった。
私は、あまりにも孤独だった。
どれだけ有名なカバー曲を演奏しても、誰も振り向いてはくれない。むしろ、騒音のように邪魔に思われているとさえ感じた。ここは私の居場所ではない、という気持ちが湧いてきてしまい、その邪念から解放されず、気まずさを抱えたまま歌っていた。
ようやく演奏が終了すると、照明や演奏による汗だけでなく、じっとりとした冷や汗もかいていた。また一時間後に二部目のステージが行われる。どうしよう。この状況に耐えられる自信がなかった。プロデューサーの意見も無視してオリジナル曲にこだわってしまったからには、彼に相談することはできない。それどころか、後で怒られるだろう。
まだ落ち着かない鼓動を抑えるようにして、トイレに行く。この会場で私は異物だ。できれば誰にも会いたくない。そう思っていたら、お腹の出た酔っ払いの中年男性が入ってきた。私の近くで小便をしながら急に話しかけてきた。
「あんた、さっき演奏してたやつだろ?」
「……あ、はい。そうです」
ああ、面倒くさい。酔っ払いに絡まれた。どうやって適当にあしらうべきか考えていた。とにかく早くトイレから去ろうと思っていると、中年男性は語気を強めた。
「あんたさ、歌う資格ねえよ」
「え……」
「あんたに音楽は向いてないって言ってんの。わかる?」
さっきのステージが散々だったのはわかっている。だが、どうしてこんな傷つく言葉を言われなければならないのだろう。まあ、酔っ払って気分が良くなっているのだろう。だから、こんな言葉を投げかけてくるのだ。こういうときは、受け流してとっととこの場を去るのが得策だ。
「あんたみたいなのがさ、ここで歌われると迷惑なんだよ」
「はい、すいません。頑張ります」
そう言って、男の後ろを通り過ぎ、トイレのドアを開けようとする。その瞬間、背後から思いもよらぬ言葉が聞こえてきた。
「あのな、俺、ここの社長なんだよ」
「え……あ……そうだったんですか。挨拶が遅くなって申し訳ございません」
一瞬でぞっと凍り付いた。信じられないことに、この酔っ払い中年男性は、歌舞伎町高級レストランの社長だったのだ。
「あんたに演奏されて、この店が恥かくの。ギャラは半分出してやるからさ、次のステージはもう出なくていいよ。荷物まとめてとっとと帰ってよ」
「はい……」
胸の芯の部分から全身へと、締め付けられる感覚が波及していく。息がどんどん浅くなり、苦しくて堪らなかった。
控室に戻ると、プロデューサーがいた。私は先ほどのステージで助言どおりにしなかったことを謝罪した。しかし、彼はそれどころではないといった調子で、いつものクールさを失い、おどおどしている。
「さっき社長と会ったんだけどさ……」
その言葉に心臓がどくんと動いた。
「もう帰ってくれって。俺から謝罪しておくから、みつるくんは付き添わなくていい。もう顔も見たくないって言うから。ってことで、すぐに帰って」
「あの……頑張りますので。 あと一部、出させてもらえないか、交渉していただけないでしょうか?」
私も必死だった。あまりにも悔しすぎる。ここで引き下がるわけにはいかない。しかし、プロデューサーは首を横に振った。
「もう無理だよ。大事な商談をしてる人たちもいたらしい。たくさんクレーム入ってるんだって。今回の件は俺も悪かった。誰にも挨拶しなくていいから、早くこの店を出た方がいいよ」
「……申し訳ございませんでした」
深々と頭を下げて、控室を出る。下を向き、誰にも顔を見られないようにしながら店の外へと出た。
歌舞伎町の澱んだ空気を大きく吸い、ビルに切り取られたような夜空を見上げる。ふいに涙が込み上げてきた。
「あんたさ、歌う資格ねえよ」
「あんたに音楽は向いてないって言ってんの。わかる?」
あの社長の言葉を反芻する。それが事実なら、もう立ち直れそうにない。
こんな街に、こんな私に、希望なんてあるのだろうか。人混みに流されて、このまま消えてしまいたい気分だ。しばらく音楽なんてやりたくない。だが、その日の深夜は音楽仲間のYくんとスタジオでセッションする予定が入っていた。適当な理由をつけてキャンセルしようかとも考えたが、それも悪いと思い、駅までとぼとぼと歩き出した。
スタジオのロビーで待っていたYくんは、私に会うと異変にすぐ気がついた。あまり話す気もなかったが、仕方なくその日のライブの顛末を話すと、彼は社長やプロデューサーに対して怒っていた。その上で、こう付け加えた。
「他人の言うことを真に受ける必要はない。自分の才能を見くびりすぎだよ。続ける限り、可能性は失われないから」
深夜のスタジオで、私たちはギターのミドルゲージの弦を切り、声を枯らしながら歌い続けた。
Yくんの言葉にどれほど救われただろう。その後も音楽を続けてこられたのは、このときの経験が大きいと思っている。
自分の可能性は誰にも決めることはできないはずだ。そして才能も、時や場所、状況によって発揮できる力は変化する。だからこそ、他人の言う制限や環境のもたらす枠組みに惑わされてはいけない。
自分の可能性を決められるのは、いつだって自分なのだ。
今でも、あのライブで味わった屈辱感や絶望感、社長の言葉、そしてYくんの言葉をよく思い出す。その度に、「可能性」について思い直させられる。
ところで、あと一日で私は三十代最後の歳を迎える。
この教訓を改めて自分に言い聞かせ、いつまでも自分の可能性を信じて様々なことに挑戦していきたいと思うのである。