川に飛び込んだ小学生
三年四組の教室で、帰りの会が行われていた。この時間、胸に黒い靄がかかり始め、息ができなくなるほど苦しくなる。
廊下側の窓から、二人の男が睨みつけるような視線をこちらに向けている。隣のクラスのTとOだ。彼らと目が合うと、体が震え、視界が暗くなるような錯覚に陥る。今日も彼らと一緒に帰らなければならない。
彼らは、自分たちのやっていることを「修行」と言った。でも、わかっていた。私の身に起きていることは、明らかな「いじめ」であることを。
元々、TとОは幼馴染だった。だが小学三年生になると、ギャングエイジの影響からか、突然「ワル」を自称し始めた。
放課後の下校時間、彼らは他人の敷地に入り込んでは、花を踏みつけたり飼い犬に石を投げたりと、非道な行為をするようになった。そして、私にも同じことをやるよう命じる。いつの間にか、私は彼らの子分という位置付けにされ、逆らうことは許されなかった。
時には川を飛び越え、崖のような傾斜地を登る。
彼らの命令に従わなかったことで、ランドセルを取り上げられ、川に投げ捨てられたこともあった。拾うことも大変だったが、何より苦労したのは帰宅後である。母と一緒に、濡れた教科書やノートを広げて乾かした。当然、母からなぜこのようなことが起きたのか質問された。が、たまたま自分で川に落としてしまったと嘘をつく。TとОからは、口外するなと命令されていたのである。だが、そうでなくても、彼らの仕業とは打ち明けられなかっただろう。母は怪訝な表情を浮かべたが、それ以上追及するようなことはなかった。胸がひりひりと痛かった。
いつからか、自分も本当に「ワル」になれば、彼らに認めてもらえるのではないか、そしたらこのようないじめも、少しはおさまるのではないかと考え始めた。生きていくために、彼らの従順な犬となるのだ。そう決めて、ワルを演じ続けていた、ある日のことである。
帰り道の途中、三人で廃墟に石を投げていた。すると、散歩中のおじいさんに呼び止められた。TとOはおじいさんに向けて石を投げると、走って逃げて行った。だが、私はどうしてもそれができなかった。逡巡している間に、おじいさんに捕まってしまう。当然ながら厳しく叱られて、私は謝った。
が、それが彼らの反感を買ってしまった。
「おい、俺たちワルなんだぜ。じじいの言うことなんか聞いてんじゃねえよ」
「罰として、この先の川でジャンプしろ」
その川は、幼い身体能力では向こう岸までジャンプで跳び越えることのできない幅があった。彼らもそれをわかっていて言っているのだろう。
凄まじい恐怖を感じたが、断ることもできない。川を前にして、うじうじ動けないでいると、
「早くしないと、ランドセルを川に投げるぞ」
と、脅された。そこで、教科書とノートを母と乾かしたことを思い出した。あんな思いはもうしたくない。
思い切って、勢いよく川に飛び込んだ。
水面に着くまでの刹那、心を地上に置いていくかのように、あるいは胸のあたりが空洞になったかのように、ふわっとした不快感が生じる。水の中に潜り込むと急激に服が重くなった。体が思うように動かない。必死に水をかき分け、ようやく川から上がると、道路にTとОはいなかった。辺りは驚くほど静かで、川の音だけが聞こえた。私は人目を憚らずに声を上げて泣いた。
びしょ濡れの服のまま帰宅すると、母が驚いて私をすぐに風呂場へ連れて行った。シャワーを浴びて着替えると、事情を訊かれる。私はまた嘘をついた。が、見破られていた。
「……ちゃんと本当のことを話しなさい」
母は目に涙を溜めていた。私は耐えられなくなって、いじめの顛末を話した。とめどなく涙が溢れて、声が出なくなりながら。
話し終わると、母が抱きしめてくれた。冷えた身体に母の体温が伝わり、温かかった。
翌日の昼休み、TとОが私のところへやってきた。人気のないトイレに連れて行かれる。ひどく緊張して、急激に体温が下がったように感じた。
「何で親に言ったんだよ。ふざけんなよ」
「俺ら昨日、お前のせいで親に怒られたんだぞ。責任とれよ」
鼓動が激しく高鳴る。また黒い靄がかかるような感覚になった。トイレの窓の隙間から風が吹き込んでいる。昨日の母のことを思った。
「俺、これからも本当のことを話すよ」
彼らの頬を平手打ちした。あくまで「心の中で」である。彼らはしばらく睨みつけた後、「ふん」と言って去っていく。
それから、いじめはぴたりと止んだ。
あの川に飛び込んだのは、勇気ではなかった。本当の勇気は、母に打ち明けたことだった。
私のすべてを受け止めてくれた、母がそばにいたこと。それがなかったら、私はあのとき、どうなっていただろう。
私を問いただすときに見た母の目を、あの深く愛する覚悟を持った眼差しを、私も持ちたいものだと、親になった今、改めて強く思うのである。