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共作小説【白い春〜君に贈る歌〜】第4章「好きって伝えたかったら、嫌いって書けばいい」③
病院から車で三十分程度のところに、花見の名所がある。そこは河津桜の名所であり、二月上旬から三月上旬が例年の開花時期である。
上野さんの希望を聞いて、今しかないと思った。これを逃したら、もう彼女に桜を見せてあげられないかもしれない。
医師に相談したところ、最初は反対された。彼女には、身体への負担が大きすぎるというのだ。だが、佐々木さんや坂本さんも賛成してくれた。看護師長も動いてくれた。彼らが協力し説得してくれたおかげで、医師の心を動かすことができた。
もちろん、その分の責任は重大である。佐々木さんと細かく打ち合わせをし、当日に臨んだ。
介護タクシーの中、上野さんは外の景色に感動していた。
後方に流れていく緑。彼女にとっては久しぶりの外出だった。入院してから、病院の敷地内を車椅子で散歩することしかなかったのである。
痛みや疲労が心配であった。が、予防レスキューとして、疼痛緩和のための医療用麻薬を投与していたことが功を奏し、彼女から苦痛な表情は見られない。僕と佐々木さんは顔を合わせて、小さく安堵のため息をついた。
彼女はずっと、夢中になって外を見つめていた。
これから行く場所で、彼女の笑う顔が見られると思うと楽しみだ。だが、一方で、複雑な気持ちもあった。そこは僕が近づかないように避けてきた場所だったからだ。
花の雲シャッター押す眼の輝きて
頭の中で一句を詠みながら、デッサンスケールを通して桜を眺める。画用紙の上を引っ掻くように、鉛筆で幾重も線を引く。山本さんの似顔絵を描いたスケッチブックである。あれから一度も開いていなかった。
しかし、上野さんとの交流の中で、何か感じるものがあった。それが何かは、はっきりとわからない。でも、確かに何かが見えてきそうな感覚がある。それは間違っていないはずだ。
何だろう。それを知りたかった。
絵を描くことで、手がかりが見つかるかもしれない。
そう思って、上野さんが詩を書く間、少しでも描こうと決めていたのだ。
桜を描いていたつもりが、桜を背景に、不思議な絵を描いていた。妖精のようである。自分でもよくわからない。こういうファンタジーな絵は自分らしくない。かと言って、桜から注意が逸れて、いたずら描きしているつもりはない。
人は、桜の向こうに何かを見る。
たとえば、芭蕉は「笈の小文」で、こう詠んだ。
さまざまの事思ひ出すさくらかな
名句かどうかの議論はさておき、桜とは、そういうものなのだ。何かを思い出し、ここではないどこかへと誘うのである。
集中力が切れたところで、近くにいる上野さんを見た。ノートを開きながら桜を見ていた。手は止まっている。
彼女は詩が完成したのだろうか。
こっそり覗き込むと、すぐに上野さんが気づいた。リズムのある詩。どこからか、メロディが聴こえてきそうだ。
すると、上野さんはメロディを口ずさんだ。
透き通る歌声が、やわらかい風に溶けていく。
彼女が、この場所の空気になっていく。
視界がぼやけてピントが合っていないように、世界が少し白くなる。燦々と光を浴びているように。連なる桜たちが重なって、一つの巨大な天の川を見ているみたいだった。
桜の妖精とは、彼女のことなのかもしれない。
歌声は止んだ。しばらく白い塊が頭の中をゆらゆらしていた。少し冷静になってから言葉を発した……つもりだった。
「いいね。俺が思い描いていたものと同じようなイメージだよ。もっといえば、想像していたよりもずっと良かった。それに……上野さんって、歌がめちゃめちゃ上手いんだね。そのことにびっくりしたよ」
あ。
言葉遣いを間違えてしまった。目の前にいる人は、上野さんだ。
どこか懐かしい感じがしてならなかったのである。
上野さんは顔を少し赤らめている。そして、口角を上げたまま、空を見上げる。水色の花柄ワンピースが日の光を吸っていた。
「いいんです。そのままタメ口で話してもらえませんか? 私もタメ口にさせてもらいますから」
思わぬ提案だった。上野さんは、こういう突拍子もないことを口にすることがざらにある。
この仕事をしていて、患者と友達口調で話したことのなかった僕からすると違和感しかない。と言っても、友達口調で話してしまったのは僕の方なのだが。
「えっ? わかりました。……じゃなくて、わかったよ」
「……ちなみに、今の曲、そんなに良かった?」
「はい。もう一度、歌ってくれませんか?」
上野さんが呆れたような表情になる。ため息まで聞こえてきそうだ。すると、いたずらな顔になり、前歯が見えた。
「あの……タメ口になってないじゃん。そんなんじゃ歌わないよ」
「すいません……あ、ごめんごめん」
上野さんの歌を聴いて、初めて作詞をした高校生のときのことを思い出した。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
どんなに綺麗な花が咲いていても
どんなに好きな歌をうたってみても
静かな空に俯いてしまう
今さら気づいた 眩しいほどの夢
一緒に見ていた桜が こんなに愛おしい
どうか 歩いていくよ
いつか 君に会えるまで
会えるよね?
きっと きっと
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
上野さんの車椅子を押しながらゆっくり歩くと、大きな重低音が耳に入った。
……桜フェスだ。
今日が開催日だとは知らなかった。
耳を塞ぎたくなる。
あのステージに立ったのは、何年前のことだろう。Seijiさんが呼んでくれたおかげで実現した、野外音楽フェスティバルの出演。
二度と戻れない場所。
二度と会えない人。
僕はもう違う世界の住人なんだ。
いつまでも前に進めない僕は、きっと哀れな姿をしているだろう。
感傷に浸ってしまう。
俯いていると、また頸と肩が痛くなってきた。早くこの場から離れよう。心を殺して。
すると、車椅子の背もたれの前から、澄んだ声が僕に向けられる。
「私、死ぬ前に三浦さんの歌が聞いてみたかったな」
え。
心にひらりと舞う、桜の花弁。
時を止めるような、草の匂い。
地面を踏んだ、アディダスのスニーカー。
足を着いた場所から、白い波紋が広がるような感覚。
空に鳥が飛んでいた。
それは一瞬の出来事だった。
彼女の声と重なるように、介護タクシーのクラクションが鳴った。現実に戻る合図のように。
桜並木を振り返った。
僕は、この桜を忘れることはないだろう。
すぐ隣にいる佐々木さんに気づかれないように注意を払った。
涙が溢れていたのだ。
何事もなかったように、帰ろう。
家族が待っている。
帰りの車の中、上野さんと佐々木さんは、病院祭のことを話していた。
「そういえば、山本さんの油彩画をご家族から借りられることになったんですよ。山本さんの作品展は、病院祭で実現できそうですね」
「それはよかった! 山本さんの絵、私すごく楽しみです。岩の絵、早く観たいなあ」
「三浦さんも何か作品を出しますよね? あ、ほら、山本さんの似顔絵。坂本さんから聞いてると思うけど、飾ってくれるんですよね?」
そうだった。坂本さんから、山本さんの似顔絵を出展してほしいとお願いされていた。返事を待ってもらっているところだった。
「どうでしょうか。あくまで山本さん一人のために描いたものだったんで……考えさせてください」
佐々木さんは呆れたように、目を細めてため息をついた。上野さんは、その様子を見た後、ふふと笑って僕の顔を覗いてきた。
「三浦さん、考えすぎ。もっと楽な気持ちで発表すればいいんだよ。三浦さんの作品は必ず誰かに届くよ。注いだ愛の分、きっと世界は美しくなる……私はそう信じているんだ」
「そうです。私なんて、病棟のナースたちでダンスしなきゃいけないんですよ。変な衣装に決まったし。毎日、休暇時間に練習して、本当に嫌になりますよ」
佐々木さんが苦笑いしながら言った。彼女は、僕と上野さんが敬語を使わなくなったことについて、何も言わなかった。何かを察しているかのように。
「そう言えば。今年のスペシャルゲストは誰なんでしょうね……僕は実行委員なのに、本人の意向で直前までシークレットになっているらしくて。一部の人しか知らないみたいなんですよ。リハーサルもやらないつもりなのかな……」
上野さんと佐々木さんは一瞬目を合わせたが、何も反応してくれなかった。
上野さんは少し疲れているように見えた。長時間の外出は、さすがに彼女の身体への負担が大きかったのだろう。僕と佐々木さんは、気を抜かずに上野さんの体調の変化を観察していた。
徐々に車内に会話が消えていき、病院に着く頃には静かになっていた。
上野さんの病室に着くと、すぐに姿勢を整えて、血圧や血中酸素飽和度を測定した。異常なし。背中の痛みはあるようだが、大きな問題なく帰ることができた。
ようやく安心して、佐々木さんは饒舌になった。上野さんに花見のときに書いた詩を見せてもらっている。
そのときだった。
上野さんのCDが入ったバッグに、本が挟まっているのが目に入った。僕もよく知っている本。それは僕のエッセイ集の背表紙で間違いなかった。アルファベットで「S」と書いた付箋が貼ってある。
やはり、彼女は読んでいたのか……。「S」とは、きっと、あのエッセイだろう。
「私、死ぬ前に三浦さんの歌が聞いてみたかったな」
さっきの言葉が頭をよぎる。
今の僕を見たら、彼はなんて言うだろう。そんなことを思った。
目の前で笑っている、上野さんを見ながら。
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