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地球の端を歩いているような

 もう十七年くらい前のことである。ライブによく来てくれていた、私よりひと回りくらい歳上のSさんとJさんがいた。とても穏やかなカップルといった印象で、いつも微笑ましく私のステージを見守ってくれていた。
 彼らがライブに来るようになったのは、たまたま私のホームページに訪れたことがきっかけだった。曲の歌詞を読んで、深く共感するところがあったのだと言う。二人は、重度の精神疾患を抱えて生活保護を受けていた。
 渋谷CLUB QUATTROというライブハウスに出演した日の夜も、いつものように私に声をかけてくれた。

「みつるさん、今回もすごく感動しました。やっぱり僕は、特に歌声が好きです。あの、今日は彼女から話があるみたいなんですけど、ちょっと聞いてもらえますか?」

「いつもありがとうございます。どうしたのですか?」

 Sさんの斜め後ろにいたJさんが、背中をぽんと押されて前に出る。視線を下に向けたまま、もじもじと話し出す。

「あの……実は私、カメラが好きで……。もしよかったら、今度、写真撮らせてもらえませんか?」

 Jさんの視線が忙しなく動いている。彼女は、元プロのカメラマンだったらしい。が、ブランクが大きく、リハビリを兼ねて写真を撮影させてほしいそうだ。金銭のやり取りはなしで、宣材写真を撮影してもらえることになった。

 早朝、こちらが指定した小金井公園にある、江戸東京たてもの園前に集合した。撮影の補助としてSさんも来ている。また、事前に知らされていなかったDさんという人物も来ていた。白髪の多い、物静かな印象の男性である。SさんやJさんより少し歳上のようだ。Sさんが終始よそよそしい態度であることが気になった。撮影の休憩中もあまり笑うことなく、少し離れたところでぼんやりと見ているだけだった。
 撮影自体は、和やかな雰囲気で進行した。だが、打ち上げのインド料理店で、皆で同じテーブルに座っているときも、SさんとDさんは顔を合わすことも、言葉を交わすこともなかった。その後も、撮影した写真をJさんの家で確認することになったが、Sさんは「用事があるから」と言って帰ってしまった。
 突然現れたDさんは、彼らとどのような関係なのだろう。何も説明がなく、ずっと謎に包まれていた。触れていいのかわからず、訊くことも躊躇われる。ましてや、Dさんは無口でほとんど喋ることがない。いまいち判然としないまま、写真の確認作業に注意を向けた。
 その日の夜、Sさんからメールが来た。

「夜分遅くに失礼します。今日は撮影、お疲れ様でした。何もお役に立てませんでしたが、ご一緒できてとても光栄でした。ところで、今日来ていたDさん。実は、Jさんの彼氏なんですよ」

 え……SさんとJさんはカップルではなかったのか。今までずっと勘違いしていた。ということは、二人はどういう関係なのだろう。状況がさらによくわからなくなってきた。

「とにかく、僕は彼女が許せません。みつるさんの歌をこれからも聴きたかったですが……とても残念ですが、もう会うことはできません。今までありがとうございました。さようなら」

 詳しい説明もないまま、一方的にあっさりと別れを告げられる。どうしたのかと質問してみたが、それきり返事が来ることはなかった。
 ライブには毎回と言ってもいいほど来てくれていた人なのに、いったい何が彼をそこまで動かしたのだろう。Jさんが許せないって、彼女はいったい何をしたのか。Sさんの精神状態は大丈夫だろうか。そんなことを反芻しながら、眠剤を少し多めに飲んで眠った。

 翌日、今度はJさんからメールが来た。昨日撮影した写真について、相談したいことがあるから家に来てほしいと言う。
 昨夜のSさんの件があったため、そわそわして落ち着かなかった。何か答えがわかるかもしれない。数分後には、一駅で着く彼女の家へ自転車を走らせていた。
 Jさんの家では、大ファンだと言う松任谷由実の曲がCDラジカセから流れていた。彼女は、白くて薄いTシャツにデニムのショートパンツといった、ずいぶんとラフな恰好だった。
 パソコンの画面を見ながら、彼女が選んでくれた写真を確認する。なかなか集中力の要る、疲れる作業である。大まかに厳選したものをDVD-Rに取り込んでもらった。
 一段落ついたところで、Jさんが冷蔵庫から麦茶を取り出してコップに注ぐ。ちらちらとこちらを見ていて、彼女は自分の手元に麦茶をこぼしてしまった。何か動揺しているようである。彼女はベッドに背を預けて座ると、SさんとDさんのことを話し始めた。

「先日一緒に来てくれていたDさん……。実は、私の彼氏なんです。彼は元々アートに携わる仕事をしていたから、撮影も力になってくれると思ったの。それに重度のうつ病であまり家を出ない人だから、気分転換になると思って」

「……そうだったんですか」

 やはり、Sさんが言っていたことは嘘ではなかった。もちろん彼から聞いたことは、黙っていた。しかしそうなると、Sさんはどういう存在なのだろう。緊張しながら、麦茶を一口飲んだ。

「Dさんの病気が悪化してから、あんまり相手をしてもらえなくなって。彼に許可をもらって、体の関係を持てる異性を探すために出会い系サイトを始めたの。そこで出会ったのがSさんってわけ。事情を話さなかった私も悪いんだけど、彼はどんどん私に対する独占欲が強くなってきてね。ちょっとタイミングをみて、Dさんのことを話したの。そうしたら、それでもいいから会ってほしいと彼は言ってくれて。Dさんと彼が会っても大丈夫なのかと思って、事前に何も伝えずに、昨日二人を連れてきたんだけど……」

 真実を伝えること、知ることが正しいとは限らない。この世には知らなくていい情報が溢れている。正直に言えば、SさんとJさんの出会いがあまりにも意外で、少し残念に思った。だが気になって、もっと驚くようなことを知りたいとも思った。
 それにしても、これまでずっと敬語を使っていたJさんが、段々と友達口調になっているのが少し気になる。饒舌になった彼女は続ける。

「そしたらSさん、怒っちゃったみたいで。昨日の夜、こんなメールが来たの。見てくれる?」

 彼女は、携帯電話を操作しながら移動し、私の隣に座った。携帯電話の画面から、Sさんのメールとは思えないような恐ろしい言葉が目に飛び込んできた。 

「俺を騙したな、この裏切り者」
「ノウタリンめ」
「メンヘラ女、死んでしまえ」

 Jさんは私の肩に手を添えた。

「Dさんの存在は伝えてあったんだし、私は別に彼を騙したわけじゃない。メンヘラなのは彼だって同じ。でも……こんなメール来たらさすがに怖くて」

「こんな内容のメール来たら、誰だって怖いですよね……」

「だから、みつるさんに助けてほしくて……」

「え、助けるって……あ、お話なら聞けますよ。ちゃんと期待に添うようなお返事できるか、それはわかりませんが……」

 軽くため息をついたJさんは、突然に抱きついてきた。

「私と付き合ってくれないかな?」

 私の左頬にJさんの髪が触れている。安そうな整髪料の甘い香りがした。さっきから嫌な予感はしていた。が、まさかこんな展開になると思ってもいなかった。ひどく動揺した。
 これまでJさんを異性として意識したことはなかった。きっと彼女も、Sさんと別れたから、ただその穴埋めをしたいだけなのだろう。彼女からすれば、ちょうど都合の良い相手なのだ。この短絡的な行動に、憤りと恐怖を感じた。

「どきどきしてるでしょ」

「いや、あの。ごめんなさい……」

 手を振り払った。彼女はそうされるのをわかっていたように、妙に落ち着いた表情をしていた。
 それから二言三言の言葉を交わして、鞄を持つ。気まずさから逃げるように、Jさんの家を後にした。
 夜、Jさんから何通もメールが届いていた。

「あなたは、人にやさしいふりして、思わせぶりな態度をとるばかり。まだまだ子どもね。そのやさしさが人を傷つけることを知った方がいい」

 こういった内容の文章が長々と書かれていて、私の心は深く抉られた。
 さらには、音楽仲間に連絡すると、Jさんから「みつるさんと熱い抱擁を交わしました」というメールが来たと言われた。
 なぜこんな嘘を広めようとするのか。彼女が一方的にハグしてきただけではないか。寒気がして、手が微かに震え始めた。
 深夜になると、今度はSさんからメールが来た。向こうから別れを告げたのにどうしたのだろうと思い、携帯電話を開く。

「おい。お前、あの女と結ばれたらしいな。ひと回りも歳上のおばさんをたぶらかして、恥ずかしくないのか? いつもきれい事ばっか並べやがって。嘘ばっかなんだよ、この偽善者。八方美人。お前もあの女と同じ、ノウタリンだ」

 豹変したSさんの言葉に、戦慄が走った。なんてひどい言葉だ。今まで会っていた彼とは別人だ。Jさんから、Sさんのメールを見せてもらったときと違って、矛先が自分に向けられた今、客観性は失われていた。
 Sさんも、Jさんから連絡があったのだろうか。彼のように勘違いする人間がこれから何人現れるだろう。自分から人がどんどん離れていくイメージが頭に浮かび、胸が苦しくなってきた。もはや、反論する気力もない。
 しばらく彼らが落ち着くのを静観していた。彼らからメールが来る度に激しい動悸がしたが、もう一切の連絡を無視するように決め、関わらないようにした。

 それからおよそ三か月後。渋谷TAKE OFF7というライブハウスに出演した。ライブが終わってフロアに出ていくと、帽子を深く被った男性が軽く会釈しながら私の横を通り過ぎていく。左手首には、包帯が巻かれていた。
 そのとき、その男性が誰なのか、はっきりとわかった。彼を追いかけようとしたが、辞めておいた。そそくさと去っていく背中を見ながら、またいつか和解して、笑顔で会える日が来るかもしれないと密かに期待していた。
 
 その後も、Jさんが撮影してくれた写真は一年のあいだ、全国ライブツアーのフライヤーや路上ライブの看板で使用させてもらった。
 だが、もう二度と彼らに会うことはなかった。
 
 私たちは僅かな時間、地球の端を歩いているような、さみしくて特別な感覚を、音楽を挟みながら共有してきた。
 一歩踏み外せば、消えてなくなりそうな境界線。闇の中で生きる自分だけが特別で、自分こそがこの世の真実を知っていると思い込んでいた。
 だが、一緒にいるには、あまりに不器用すぎた。
 特別になりたくて、別の自分を演じ続けた。
 愛が欲しくて、たくさんの人を傷つけた。
 その度に、胸の奥の方には爪で深く引っ掻かれたような傷痕が残った。
 それが自分の存在の証明だった。
 あのときの古傷が、何かをきっかけにたまに疼くことがある。温かさと切なさを連れて。
 彼らは今も、生きているだろうか。






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