「なりたい」と「ありたい」の狭間で ~ゼロさんとの邂逅~
ゼロ。
この言葉を聞くと、私はある男性を思い出す。それは、東京から田舎に帰ってきた二十代後半。まだ夢との折り合いをつけることができずに、だらだらとアルバイト生活を続けていた。そんなときに出会った、ある不思議なミュージシャンのことである。
これから、どうやって生きていこう。
中学生のときから音楽以外の人生をろくに考えてこなかった。これまで「駄目だったときのことを考えて、保険をかけておけ」と、いろんな人から言われたが、まったく聞く耳を持たなかった。だから、それ以外の選択肢がまったくわからない。空虚なまま、ただぼんやりと時間が過ぎていく。
そんな折、地元の音楽仲間から配線工事の仕事を紹介された。給料も悪くない。彼からは「休憩時間になったら一緒にギターを弾こうよ」「これからも音楽がやれるよ」と言われた。就職に活かせる資格は何もなく、これまで社会人経験のない身としては、贅沢すぎるほど有難い話だ。しかし、その仕事に働き甲斐を見出せる自信がなく、返事を待ってもらっていた。
夏も終わりに近づいていたその頃、平日の夕方になると路上ライブを行っていた。実家の最寄り駅から三駅離れた、この地方ではやや栄えた街の地下通路である。
いつもの時間、いつもの場所。地下通路というものは、閉鎖的で空気は悪いが、自然に音を反響させてくれるため、路上ライブに適している。この時間は仕事帰りのサラリーマンが通ることが多い。彼らを見ていると、コンクリートの地面に座る自分が惨めに思えた。東京にいた頃には決して抱かなかった気持ちである。
私はどこに向かっているのだろう。目的もわからずに、悶々としながら演奏していた。
すると、六十代くらいの男性がひょろっと足を止めた。白髪で浅黒い肌をしたその男は、小汚いスーツを羽織り、なにやら貧相な印象を受ける。曲が終わると拍手をするでもなく、私の方へずかずかとやってきた。
「俺は今、就職の面接だったんだ」
どうやら私の歌を聴きに来たのではないようだ。彼は過去の自慢話を延々と続けるため、私はライブを中断されたことに苛立った。
彼はアーティスト名を「ゼロ」と名乗った。かつては名の知れたミュージシャンだったのだそうだ。世間の誰もが知っている昭和の名曲を、本来は自分に歌のオファーが来ていただとか、現在もマネージャーが付いており、ライブの出演料は数十万円貰っているだとか、噓のような話ばかりだった。
インチキおじさんの妄言はうんざりだ。路上ライブをやっていると、こういうタイプの人によく会う。あまり深く関わってはいけない。しかし、男は私のギターをちらちら見ては、あからさまに弾きたそうにしている。話が長く、相手にするのも面倒だ。一曲だけ弾いて満足してもらおう。そして、さっさと帰ってもらおうと画策した。
ゼロさんはギターを持つと、子どものような無邪気さでジャカジャカとかき鳴らす。周囲からはやっかいな男に絡まれたと思われそうで、彼から少し距離を置いた位置で観ることにした。すると、どこから始まったのか、ポール・アンカのダイアナを歌い始めた。
空気が、明らかに変わった。
歌唱力があるわけではなく、ギター演奏が特別に上手いわけでもない。だが、どこか深みのある歌声に一気に惹きつけられた。世の辛酸を嘗めたものにしか行けない領域のような凄味があった。もはや、カリスマ性すら感じる。
ゼロさんは瞳を閉じて笑みを浮かべる。リズムに乗せたハスキーな声は、最高潮の幸せと哀しみを体現するかのようで、まるでダンスしているようだ。
気づくと、私の周りにお客さんが集まり始めていた。彼の容姿からはとても想像もできない、圧倒的なパフォーマンスに魅了されている。私もその一人になっていた。
ゼロさんが曲の合間に、「ロックンロール!」と叫び、高らかにピースサインを掲げると、大きな拍手と歓声が湧いた。その後も彼は私の存在を忘れているかのように、ひたすら歌い続けた。
「今日は楽しかったよ。来週うちの近くの店でワンマンライブをやるんだけど、前座で歌わないかい?」
帰り際、ゼロさんからそんな誘いをもらった。多少の逡巡はあったが、無為な日々から抜け出すチャンスになるものなら、何でも飛び込んでみたい、そう思って「はい」と答えた。すると彼は、即座に私のフライヤーの端に電話番号を書く。躊躇することなく引きちぎって、私に差し出した。
「詳しいことは、電話で。じゃあまた」
ライブ当日。待ち合わせは、会場の最寄り駅だった。約束時刻はとうに過ぎていて、本当は来ないのではないかと心配していると、「おーい」と声が聞こえた。白いハット帽子を深く被り、ベージュのスーツに派手な模様のネクタイを締めたゼロさんが、軽トラックに乗って現れた。
これから彼の家で打ち合わせをするのだと言う。サイドシートに乗せてもらうと、彼は山の方へ向かってアクセルを踏み込んだ。
駅からどんどん遠く離れていく。もしかしたら、どこか違う場所に連れて行かれるのではないか。少し悪い想像を膨らませていると、道中でゼロさんが左側にあった空き地を指さした。
「来年にはさ、ここにライブのできる、イタリアンの店を作る予定なんだ」
「へえ……ライブができるなんて、いいですね」
私は後方に流れていくその空き地をじっと眺めた。近くに民家も見当たらないこの場所に、人が集まる様子はとても想像できなかった。その間もゼロさんは具体的な構想を話してくれ、私は適当に相槌を打っていたが、内容は殆ど覚えていない。
車は本格的に山の中に入り、周囲は緑に囲まれた。どこまでも木の連なりが広がっている。道は険しくなり、ゼロさんの運転もいっそう荒々しくなる。段々と怖くなってきた。彼はそんな私の心理状態に気づく様子もなく、けろっとしている。
「あっ、そうだ。今日のライブ会場の店がさ、急遽休みになっちまったんだよ。代わりにさ、大きな公園を会場にしよう」
「え……? 公園ですか?」
ライブが決まっていたのにハコ側が急遽休みをとるなんて、これまで聞いたことがない。どんな事情だろう。信用してよいのだろうか。それに、急な会場の変更に、ゼロさんのお客さんはどれくらい来てくれるだろう。
不思議な程に、ゼロさんという奇妙な人物に興味や好奇心が湧いていた。騙されてもいいから、彼のやることを覗いてみたい。
一車線の狭い道路を猛スピードで駆け上がる。事故の心配をしながらも、やがて坂の急な曲がり角の路肩に停車した。
「ここだよ。我が家へようこそ」
人気のない閑静な林の中で、彼は片方の口角を上げた。ここはおそらく富裕層の別荘地ではないか。ゼロさんの家は木造の二階建てのようだ。が、一階はほぼ物置として使われており、人の生活スペースはなさそうだ。建物の中央に急な階段がある。彼に案内されて二階に上がった。すると、突き当りの左右に扉がある。左側の扉をゼロさんが開けると、そこは四畳程度の広さで、足の踏み場もない程に物が散乱していた。酒の缶、中身の不明な大きい袋、積んである古めかしい本。ゴミの一部のようにアコースティックギターが置かれている。思わず鼻をつまみたくなったが堪えることにした。
「適当に座ってて。トイレに行ってくる」
そう言われて残されたもものの、座るスペースなどない。呆然と立ち尽くしたまま振り返ると、ゼロさんは二階のもう一つの扉を開けている。どうやらそこがトイレのようだった。
ゼロさんがいなくなった途端、ようやく状況を冷静に考える時間ができた。私は一度しか会ったことのない、不審な男の家にいるのだ。ライブの打ち合わせなんて本当にやるのだろうか。こんなよくわからないところまで連れて来られて、何をされるかわかったものではない。
ふと足元に昔のレコードが五枚くらいばら撒くように置いてあることに気がついた。それらをこっそり手に取ろうとすると、背後から声をかけられた。
「思ってた子と雰囲気が違うわね」
足音にすら気づかなかったので、驚いて体がびくっとした。今時珍しい言葉遣いだ。振り返ると、端正な顔立ちをした中年女性が、舐め回すように私を見ていた。彼女はバブル期を彷彿させる、明らかに時代錯誤した身なりをしていた。名前を「みゆき」と言うが、本名ではないらしい。ゼロさんの奥さんか? それにしては結構な年齢差があるように見える。
やがてゼロさんがトイレから戻ってくると、みゆきさんの顔を見るなり表情が険しくなった。
「遅いぞ、この野郎!」
これまで穏やかだった彼が、まるで女性を見下すように、声を荒げてまくしたてた。
「仕方ないじゃない。こっちだっていろいろ用意してたのよ」
みゆきさんも全く怯む様子はなく、強気である。いつものことなのだろうか、すぐに彼らの口論は収まり、ゼロさんはみゆきさんの紹介をしてくれた。彼女はゼロさんのマネージャーであり、近所に一人暮らしをしている元看護師の方だそうだ。それを聞いていたみゆきさんは、きっとした顔つきになった。
「マネージャーじゃないわよ。いつからそんなことになってるわけ?」
「女は黙ってろ!」
みゆきさんは語気を強めて否定したが、ゼロさんは一喝して受け流した。
その後、ライブの詳細について話し合った。会場は変更となったが、開場、開演時間は予定していた時刻どおりに行う。照明係はもう手配しているそうだ。
リハーサルと会場設営を兼ねて一時間前に公園に行くことになり、荷物をまとめ始める。ゼロさんは氷を入れた大きなバケツに、缶ビールとオレンジジュースを入れていた。
「何をしているんですか?」
「これをさ、一本二百円で売るわけよ。足りないかもしれないけど」
口元の白くて短い髭を光らせて、にやにやしている。ゼロさんが部屋にあったギターをハードケースに詰めて軽トラックへ運んでいると、みゆきさんが話しかけてきた。
「ああ見えて昔はすごい歌手だったみたいよ。性格はきついけど歌だけは好きで、私もこういうときだけ協力しに来てるの」
「へえ……」
二人の関係がいまいち把握できない。が、彼女はゼロさんの妻や恋人でないのは間違いなく、マネージャーというのはきっと嘘だろう。
荷物を詰め終えると私もギターを抱えて再びゼロさんの車に乗り込んだ。後ろからみゆきさんの黒ずんだ白い軽自動車がぴったりと付いてきた。
発車から五分も経たないうちに会場の公園に辿り着いた。遊具は何もなく、校庭のグラウンドのような広い敷地である。ところどころにベンチが配置されているが、人は誰一人としておらず閑散としている。こんな山の中にある公園を、誰がどのような用途で使用するのだろうか。私の乏しい想像力ではジョギングコースくらいしか思いつかない。
ゼロさんは奥のベンチにギターケースを置いて、その周囲に飲料を入れたバケツなどを置き始める。機材と呼べるようなものは何も出てこなかった。どうやらアンプは使用せずに生音でやるらしい。呆然と眺めていると、彼はベンチから離れ、草花が生い茂る場所でせっせと花を摘み始めた。その間、みゆきさんはバケツから勝手にオレンジジュースを取り出し、ベンチに腰掛けてぐびぐび飲み始める。私はみゆきさんから少し離れた場所でギターを取り出して、チューニングを始めることにした。すると、一台のワゴン車がこちらに向かってくるのが見える。それがすぐに照明係の人だと察した。ゼロさんも手を挙げて合図を送っている。
車が到着すると、大きな男がぬっと運転席から降りてきた。眼鏡をかけ長い髭を蓄えている。五十代くらいだろうか。まるで熊のようだ。男は脇目も振らず、ベンチに座るみゆきさんの方へ近づき、「やあ」と挨拶した。みゆきさんは缶を見つめたまま「お疲れ」と投げ棄てるような低い声で応えた。
「今日はゼロさんのライブ、楽しみだね」
「そうね。あの子もやるのよ」
みゆきさんが私の方を指さす。一瞬、男は眼鏡の隙間から、睨みつけるような目を私に向けた。そして私などまるで空気のように触れず、みゆきさんと世間話を始める。が、みゆきさんが遮るように私を呼んだ。
「この人は、倉持さんっていう人でね、今日は照明をやってくれるの」
みゆきさんの淡々とした口ぶりと、私に目も合わさず会釈だけする倉持さんの態度を見て、お互いにどういう感情を持ち合っているのか、何となく想像がついた。後にゼロさんから聞いた話だが、倉持さんはみゆきさんにストーカー行為をした過去があるらしい。
その後、ゼロさんも加わり、照明について話し合う。よく聞いていると、ステージはこのベンチであり、そこを倉持さんの車のライトで照らすのだと言う。話の議論はどのくらい離れた距離で倉持さんの車を配置するか、その一点のみだ。ワゴン車に発電機が積まれていると思ったら大間違いだった。
ギターを構えたゼロさんがベンチに腰掛け、倉持さんが車のライトで照らしながら光の加減を調整している。ゼロさんがもっと下がれだの、近づけだのとジェスチャーでサインを送る。ようやく納得のいく位置に停車し、スタンバイの態勢に入った。
開場時間まであと三十分。そういえば、私もゼロさんもリハーサルなんてしていない。このまま始めるつもりだろうか。「そろそろリハーサルしませんか?」と訊いても、「自由にやってていいよ」と答えるばかりで、彼は二人と話ばかりしている。音楽とは関係のない、食べ物の話である。私は彼らから離れて、皆に聞こえないように注意しながら自分の演奏を最終確認していた。
やがて開場時間になる。公園の入り口を何度も見ては、客の入り具合を確認して、そわそわしていた。だが、一向に誰も来る気配はない。ゼロさんは「みんな遅いなあ」「もう始めちまうぞ」等と、私に聞こえるような声でぶつぶつと呟いている。
そしてついに、誰も来ないまま開演時間になってしまった。
私は演奏するためにベンチに腰かけた。隣にはゼロさんが摘んだ花が置いてある。彼なりの飾り付けなのだろう。可愛らしいところがあるではないかと少し見直しながら、ギターを構えた。すると、近くにいたゼロさんは「忘れ物をしたから先に演奏してて」と言って、軽トラックで自宅へ帰ってしまった。一方、みゆきさんは少し離れたベンチでジュースを飲んでいる。倉持さんはというと、車の中から降りてこない。
私は一人だった。
何のためにここで演奏するのだろう。これでは、練習と変わらないではないか。どこへ向けて演奏したらよいのかわからないまま、ギターの弦を震わせ、声を張り上げる。一曲終わると、拍手もなく静寂に包まれた。辺りは暗くなり始めて、公園が妙に大きく感じる。空に星が見えた。ここは暗いからか、ずいぶんと数が多い。よし、この夜空に向けて歌をうたおう。そう決めたとき、ペタペタと足音を立ててみゆきさんが近づいてきた。彼女は私の隣にすっと腰掛けた。
「あなたさ、語尾がぷつんと切れる癖があるけど、気づいてる? そこが聞いてて不快なのよね。ちょっと語尾を弱くできないかしら」
何かと思えば、歌のアドバイスだ。私は今、ライブ中ではなかったか。
「あ、はい……こんな感じでしょうか」
ワンフレーズを歌い直してみる。
「そうそう、まだ微妙だけど、さっきよりはいいわよ。じゃ、頑張ってね」
席を立ち、再び離れたベンチに戻って行った。なんだこれは。ただでさえ、こんなわけのわからない状況の中で、無理やりやる気を出していたのに。自信まで失ってしまったではないか。できることなら、今すぐにでも帰りたい。もう一曲だけ演奏して終わることにした。
「悪い悪い。これを忘れちまってね」
私のライブが終わった頃、ようやくゼロさんが戻ってきた。忘れ物とは、ハット帽子のことだったようだ。
私とみゆきさんは、ゼロさんがギターのチューニングをする姿を、ベンチの前で静かに眺めながら演奏を待っていた。ゼロさんは自らバケツの缶ビールを取り出し呷り始めた。
やがてハット帽子を片手で押さえ、頭を下に向けた。みゆきさんは突然、「きゃー」と黄色い歓声を上げて拍手する。少し驚いたが、私もそれに倣って同じように拍手を送った。いつの間にか倉持さんもみゆきさんの隣にいて手を叩いていた。
「へーい、皆さん。お待たせ。今からゼロのショータイムだ。余計な話はいらないぜ。聴いてくれ、ヘイ・ジュード」
ゼロさんの声が、晩夏の夜空に吸い込まれていく。彼はまるで日本武道館で歌っているかのようにハイで、気持ちよさそうに曲を奏でている。横を見ると、二人は夢中でゼロさんの歌を聴いていた。
徐々に悔しさがこみ上げてくる。何年も本気で音楽に向き合ってきた自分を、否定された気分になったのだ。
しかし、彼はやはり、ただのインチキおじさんではなかった。歌声の底に、彼の味わってきた人生の哀しみや淋しさが見えてくるのだ。つまりそれは、生き様であり、叫びだ。彼はきっと、この世の闇もどん底も、人の温かさも美しさも知っている。
この瞬間。この世の片隅。
彼は、たった三人にとってのスターだった。
歌い終わると、真っ先にみゆきさんの激しい拍手が湧き起こる。その妙な過剰表現は、サクラとさえ感じる程であった。ゼロさんはなぜか一曲しか歌わず、「ありがとう! よし、打ち上げだ!」と満足げに言い放ち、皆で倉持さんの家に行くことになった。
ビールを飲んでしまった彼はそのまま運転しようとするが、私が引き止め、代わりにゼロさんの軽トラックを運転することになった。幸い、普段からマニュアル車に乗っているので、操作は問題なかった。
ゼロさんに案内されるままに道を進み、倉持家の庭に駐車する。玄関扉をゼロさんが開けると、足を踏み入れるのを躊躇った。物は散らかっていないが、どれだけ掃除していないのか、玄関からリビングに続く廊下の床の端には埃や髪の毛が目立ち、何やら異臭が漂っている。玄関にはみゆきさんが履いていたハイヒールの靴があり、既に中にいることがわかった。ゼロさんも革靴を脱いで平然と上がっていくので、私も意を決して上がることした。
リビングに入ると倉持さんはソファーに座るよう促した。ちらっと周りを見渡すと虎の置物がたくさんある。その中に猟銃を発見し思わず身を縮めた。テーブルには食べかけの食品が展開されている。乾燥具合から時間が大分経過したものであることが察せられた。
ゼロさんは早速、テーブルにあったコンビニのお握りを食べようとした。が、「これ、賞味期限が切れてるじゃねえか!」と、床に投げつけた。倉持さんは食べかけの心太とお茶を出してくれたのだが、私はどうしても口をつけることができなかった。
ほろ酔いのみゆきさんが缶チューハイを呷りながら、私に質問をぶつけてきた。
「あなた、ミュージシャンになりたいの?」
頭が真っ白になり、思わず視線を落とした。答えに迷ったが、これまでの経緯や配線工事の仕事を紹介してもらっている現状などを簡単に説明することにした。
すると、ぼんやりとした目で私を見つめながら、彼女は言った。
「そこで働いた方がいいよ。いつまでも若いと思って夢見てないでさ、現実に向き合って、社会で働く大変さを学んだ方がいいよ」
急に視界が暗くなるかのように、胸にずんと重たいものを感じた。私は何を期待していたのだろう。何も言うことができないでいた。
「私たちは社会に負けて、ドロップアウトした人間だから」
私の顔を真っ直ぐ見据えて、みゆきさんは付け足すように言った。私は思わず「えっ」と声が出そうだったが押し殺し、改めて三人をまじまじと見た。倉持さんはみゆきさんの隣で腕組みをして頷いている。ゼロさんは、ただひたすらに缶ビールを飲んでこちらを向いていなかった。
終電の時間が迫っていた。泥酔のゼロさんが送り届けると言うが、頑なに断った。他の二人も酒を飲んでしまっていたので、タクシーを呼ぶしかない。が、お金がないことに気がついた。焦っていると、みゆきさんが、「あなたが運転すればいいじゃない」と私に提案する。「いいよ」と、なぜかゼロさんが返事をした。どうやら、軽トラックにゼロさんを乗せて私が運転し、彼は駅で朝まで過ごすという話らしい。
街灯も殆どない山の中、暗闇を切り裂くように車を走らせる。ゼロさんは酔ってはいたが、正確に道案内してくれた。私は慌てながら必死に運転に集中していると、ゼロさんがぼそりと呟いた。
「さっきの話、気にするなよ」
「あ、はい」
さっきの会話を聞いていないと思っていたが、彼はしっかり聞いていたのだ。
「今度はさ、ホールでライブやろう。来月にも会場押さえるからさ。その予定が決まったらまた連絡するよ」
黄色い歯がにやにやと闇の中で光を放った。
駅についてお礼と別れを告げると、彼は運転席に乗り換えた。静止する間もなく、窓から親指を立てて走り去ってしまった。
胸の中で、「ロックンロール!」と叫ぶ、ゼロさんの高らかな声がこだましていた。
あれから、連絡は一度もなかった。私も彼に連絡しようとは思わなかった。住む世界や価値観があまりにも違うと思ったからだ。当時の私は、彼らに対する偏見があった。それに、いつまでもうじうじと将来に思い悩み、結論が出せないでいる自分を見られたくなかった、というのもある。ただ、彼らの言葉一つひとつがどうしても頭から離れなかった。
また、ゼロさんの歌について、しばしば考えることもあった。きっと、彼は他者からの称賛がなくても、ステージがなくても、音楽をやり続けるだろう。ただやりたいから、音楽をやっている。音楽の先に何かを見ているのではなく、単純に音楽だけを見ている。
ミュージシャンに「なりたい」のではない。ミュージシャンで「ありたい」のだ。
それは一見、自己満足のくだらない世界にも思える。が、「なりたい」とは、その対象と距離があるからこそ生じる感情である。メジャーで活躍するとか、作品の完結を他者に依存しないだとか、そういう次元の話ではない。彼は、音楽とひとつになっていた。言い換えるなら、彼そのものが、音楽だった。だから、胸を打つ芸術作品が自然発生するのだろう。
そして私はあの後、配線工事の仕事を選ばなかった。そこに「ありたい」自分を、どうしてもイメージできなかったからだ。
みゆきさんから言われた「現実と向き合う」という言葉に、私なりの答えを出した。
「なりたい」に甘えず、「ありたい」ものを大切に守っていくこと。
夢を諦めたように思われることもあるが、私は表現者としての生き方を、生涯かけて追求していくのだろう。
ここはまだ、夢の途中なのだ。
今、彼らはどうしているのだろうか。あの空き地に店は建ったのか。相変わらずライブをしているのか。生きているだろうか。
そもそも夢だったのではないかとふと思うときがある。またゼロさんに会って話がしたい気持ちはあるが、次に行ったらひょっとすると、すべてが存在しないかもしれない。寧ろそうなっていてほしいと思うほどの、夢のような体験だった。
私はあのとき、間違いなく、何もない、そしてどこへでも行ける「ゼロ」だった。
彼らを思い出すとギターを弾きたくなるのはなぜだろう。