元首相銃撃と、その反応について思うこと
1週間ほど前に、大変なことが起きた。それは安倍元首相が銃撃され、死亡した事件だ。この出来事のショックさとは、死亡したのが元首相で現役の衆議院議員であることもそうだが、なによりも「銃撃」という、およそ日本では考えられない(と思われている)手法によるものが大きい。そして、銃器はどうやら手製であり銃撃事件が後を絶たないアメリカメディアですら、「こんなものをどうやって規制すれば良いというの」と報道するほどの衝撃があった。そして、さらに複雑なのはその動機である。現在のところでは政治思想的な動機ではなく、家庭を崩壊に追いやった新興宗教への恨みによるもの、との報道がなされている。
ここではその一々を追わないが、連日の報道を見る中で私の中には、ふとした違和感が湧き上がってきた。
この事件についてのコメンテーターの口は何か微妙で重々しい。事柄が宗教に絡むものもあるとは思うが、みな冒頭には「容疑者の行動は理解できない」と判子を押したように言う。殺人を肯定することはできないし、私が言いたいのもそういうことではないが、この「理解できない」という言動に一様に潜むものは、「自分はこの事件、ひいては事件の素因となるような狂気とは対極にいる」との感覚ではないだろうか。私はこのことを問題としたい。
一見すると、殺人という現象はその他大勢の人の持つ「一般的感覚」とは相容れないように思われている。それは正しいことのようにも思われているし、事実、殺人を犯すということは通常の精神状態では考えられない面もあるとは思う。だがそこで考えてみたいのは、そういった「一般的感覚」を待ち合わせた社会の中に、今回で言えば山上もまた存在をしていたのではないだろうか?ということだ。そうであるならば、多くのコメンテーターが「理解できない」とする山上をも抱え込んでいた(現在も彼はこの社会の中に存在をしている)社会とは一体どのような存在なのだろう、とも思う。そして、そうした視点に立つと、山上の狂気あるいは孤立や疎外というものは、驚くほどの日常性と延長とをもって、多くの人の足元に忍び寄ってくるのではないかとも思うのだ。
幸いなことに「普通」というものを享受できる人たちにとっては、その構造はあまりに巧妙に遮蔽されていて、多分彼らは終生それに気づくということはない。
普通に両親が揃い、普通に進学をし、普通に就職をし、普通に結婚をし、家庭を作り、老いてゆく……そして、そうした「普通」というものがどの場面でも再生産をされていると信じて疑わない人は案外多い。
そうであるから、彼らの多くは、殺人や戦争という現象を目の当たりにしたときに、自分とは関係のないことだと思うし、思いたがる。
普通ではないこと。殺人や戦争というものはその代表例であり、言い換えれば彼らの「健全な普通さ」というものを補強し対比してくれる物差しでもある。そして、社会の中で悲惨な出来事が起これば起こるほど、彼らの「理解のできなさ」の感覚は補強されていく。
だが、この社会というものは、想像もできないほど簡単に踏み外し、そしてどこまでも転げ落ちていってしまう残酷さと疎外性というものを持っている。その何気ない一つが新興宗教への入信であったり、家庭内暴力であったり、依存症や精神疾患や事件や事故であったりする。これは何も、非日常のものではなく、「ごく当たり前の普通の生活」の最中に起こりうるものである。その「踏み外し」の度合いにグラデーションはあれ、恐らく山上のような存在というものは、この社会の中に無数に存在をし、そして当人も「その瞬間」に追い込まれるまで気がついていないかもしれない。
こうして考えてみるならば、これは個人の内的現象というよりも、社会的現象との視点も必要になってくると思わざるを得ない。
社会の中の多くの人々は、異常な殺人者、理解できない狂気として、それらを自らと対極の「あちら側」へと起きたがる。だが、先に述べたように、この社会は間違いなくそうした異常性や狂気を孕んだものとして今も存在をしているし、これからもその構造を抱えたまま続いてゆく。
ここで言いたいのは、確かに山上個人の狂気と落とし込むことは間違いでもないかもしれないし、尤もなことのように思われる。だが、彼が間違いなく生きていた社会、(あるいは宗教)とは、一体なんなのだろうか、とも思う。
先のコメンテーター達は、誰かに相談すればよかった、助けを求めればよかった、とも軽々しく言っていて、私はこれにも言いようのない、怒りに近いような違和感を覚えたものだ。彼らには、自らの持つあるいは享受してきた「普通」というものの持つ、無自覚な暴力性のようなものに対する自覚があまりにもなさすぎるからだと思う。
これは他者に対する基本的共感というものの、あるレベルでの欠落を意味していると思う。(ここで言っておきたいが、これは山上を指したものではなく、他者一般に対したものである)
この社会にある自己責任を基調とした歪な個人主義と、個人の属する最小社会単位である家庭というものに対する見方というものと、新興宗教との関係性というものには想像以上に根深いものがあるのだとも感じる。
現代社会の持ち合わせていない、他者との絆や承認、自己肯定やコミュニティなど、新興宗教はオウム真理教の例を引くまでもなく、巧みに構築し、その隙間に入り込んできた。あの時も、高学歴の若者がなぜ?とよく言われた。この「なぜ?」にも、「自分は関係ないけど」「理解できないのだけれど」との深層心理が潜んではいないだろうか?
社会的にショックな出来事(事件や事故)が起きた時、その主体と自らを出来るだけ隔絶し、距離を取りたがる人の言説には、私自身かなり懐疑的だ。そして、そういった空気を醸成しているものは、案外自らを善人で狂気や社会の病理性とは無縁だと信じて疑わない「理解できない」あのコメンテーター達に代表されるような人々なのかもしれないと思った。
精神科医であるハリー・S・サリヴァンは「人は交流的存在である」と言う。山上もまた社会の中に存在をしていたし、当然安倍元首相もまたそうであるし、彼の死や事件にショックを受ける私たちもまたその中にいる。
これは本当に理解のできないことなのだろうか。殺人の肯定や容疑者の擁護ではなく、この社会の中で間違いなく起きたこと、起こってしまったこととして捉えるならば、この社会の在り方というものについても、やはり洞察が必要であり、そうするならば、山上という存在はもしかすると私自身の中にもあり得るのかもしれないと思う。
それは「普通」というものをどこかで踏み外し、あるいは「普通」であろうとするが故に何かを踏み外してしまったのかもしれない、孤立し疎外をされた存在である。
「もしかすると私もあのようになっていたかもしれない/あるいはその被害者となっていたかもしれない」と考えることは本当の意味で悲劇を繰り返さないための一歩なのかもしれないとこの頃思う。