「社会の縮図としての職業」ニューズウィーク日本版より

ニューズウィーク日本版の紙面が微妙に変わって少し経つ。何が変わったのかといえば、執筆者が持ち回りで週毎に変わるミニコーナーが増えたことだ。興味がないものは読み飛ばしてしまうが、必ず読むものもある。
久保田智子が担当する「あなたの人生を聞かせてください」はそんなコーナーの一つだ。今回は宮田愛子という元女子アナが取り上げられていた。タイトルはずばり「『女子アナ』という虚像と呪縛」である。
冒頭で宮田は「女子アナって一体なんだろうって。自分なりにいい仕事をしたいという思いがあっても、それを女子アナという枠の中で抑え込もうとしてくる。結局私自身には価値がないと言われている気がしていました」と語る。執筆者である久保田自身もTBSでアナウンサーをしていた経歴を持つ。宮田の話を聞きながら、久保田も自身について「女子アナ像に恐れながらも笑顔に努めた華やかで悲しい記憶」と振り返る。
宮田は地元のテレビ局でアナウンサーとして働き出すが、「地元の人に道でいじられるような身近な存在になって、地元に寄り添った仕事がしたい」という理想とは程遠いものだった。次第に自分は「女子アナ」という価値でしか測られていないのではないのかという思いが募っていくようになる。女子アナという看板ではなく、自分だからこそやれることはなんなのか宮田は葛藤をするようになっていった。
テレビ局での女子アナの役割は、あくまで決められた台本を読み、相槌を打ち、補佐的なポジションでしかない。それを「意見を持つなと言われているような気がした」と宮田は言う。
そんな中、3年ほどアシスタントをしていた番組のメインキャスターをしていた男性が休みを取る。後任の男性アナウンサーは宮田の3歳下だった。そのことを、キャリアでも認知度でもなく「男性だから」という理由が決め手だったのかと複雑な思いを宮田は抱く。だが宮田自身もこの時「自分もできます」と言わなかった。
宮田はその後記者に転向し、夫の転勤に伴って退職した後もフリーランスで活動を続けている。コーナーの最後は「宮田愛子として自分の言葉で表現することにやりがいを感じている」と締めくくられる。


本題に入る前に、「女子アナ」について考える上で、この言葉と背景の持つ気持ち悪さを的確に表現した人物がパッと思い浮かぶ。マツコ・デラックスだ。まだマツコが今ほど売れっ子でもなく、ちょうど人気になりかけていた時に彼女は「女子アナ大っ嫌い!」と絶叫し、テレビ局側もマツコを「女子アナの天敵」と煽っていた。折しも女子アナブームの最後っ屁がまだ残る時代で、マツコは女子アナという職業とそれを必要とする男社会について毒づいていた。
マツコは女子アナについて「コンパニオン」「キャバクラ嬢」、またその容姿についても「典型的な水商売顔」とバッサリ切り捨てる。容姿端麗な女性を揃えることも「女子アナに知性なんていらないんだって採用をしてる」テレビ局側にも容赦がない。だが一方で元NHKの加賀美幸子は大好きだという。
そもそも女子アナと女性アナウンサーは違う、とマツコは力説するが両者の違いとはなんだろうか?この辺りに、女子アナという職業にへの視線が隠されているような気がする。
マツコは当時TBSで「ぶりっ子女子アナ」と言われていた田中みな実をやり玉にあげながら、「あいつにああいうことをさせている男たちがいる」と指摘する。そして、男の欲望にただ乗っかっているだけの女は女子アナであり、そうでない女は女性アナウンサーなのではないかと言うのだ。
ここで重要なのは、女子アナの陰に隠された男たちの存在である。そして、それは組織として女子アナを必要としているテレビ局、ひいては社会そのものに向けての毒づきである。それをマツコは女子アナに対して「短いスカート履いてパンチラしとけばいい。男はニュースなんて聞かずにずっとそこばっか見てるんだから」と斬り捨てるのだ。マツコの怒りは、女性の社会的能力を「女子アナ」という自らにとって最も都合の良い形に押し込める男たちと、それに乗っかる女たちに向けられたものだったのだ。


女子アナに求められるのは、従順さ、若さ、清廉さ、可愛さではなかったか、と久保田も書く。たしかにキー局の女子アナというのはこの言葉通りの綺麗な見た目で、その役割をこなしている。そしてそれは、女子アナという職業のみならず日本社会が女性たちに求める理想像の縮図ではなかったのか。久保田は「だった、と書くのはこれからの時代ではそんな価値観は通用しない」と書くが、現実はそんなに甘くない。ここで扱われている問題は、社会学でいうところのジェンダーや役割期待などといったものだろうが、一説によるとこのジェンダーによる役割期待の刷り込みは6歳頃にはすでに見られるという。
女の子は控えめで補佐的に、男の子は活発で積極的にといった具合だ。女子アナという職業は、ある意味でこうした規範の究極の形といえるかもしれない。


私自身は、女子アナに特にどうと思うことはない。どちらかといえばブスよりも美人にニュースを読んでもらいたいから、見た目重視の採用選考にも特にどうということはない。もはやテレビ局そのものが斜陽産業で、ほとんどテレビを見ないからそう思うのかもしれない。
だだ女性の職業で最も華のあるものの一つはやはりアナウンサーであろうと思う。その当事者たちの葛藤とは、案外どの立場にいる女性にとっても普遍的なものではないのか。
細やかなことに気を配り、常に一歩下がって相手(特に男性)を立てることが美徳とされる。だからそれができない女は散々に言われる。このことは社会だけでなく、家庭内でも繰り返されることだ。私たちの生活の中には、その社会にとって望ましいような属性や価値観の無意識での刷り込みが至る所に存在する。すでにその価値観を内面化している人たちは、そこからはみ出た人、はみ出ようとする人たちを批判し攻撃する。ボーヴォワールが「第二の性」において新しい時代の女性たちにとっての真の敵となるのは、男社会の価値観を内面化した女たちである、と書いたのはまさに慧眼であった。
女性活躍という言葉が言われて久しい。私はこの言葉を聞くと薄ら寒く感じる。活躍とは、一体誰のための活躍なのだろうか?当然女性なのだろうが、では具体的に一体どんなことをするのが「女性活躍」といえるのだろうか。この言葉には、唱えていれば願いが叶いますとでも言うようなお題目じみた安っぽさを感じる。
唱えれば唱えられるほど、「それ以前は全く活躍できていなかった」あるいは「活躍できるように顧みられていなかった」んですとでも言われているような気分になる。
女性とつけなくても、「属性に関わらず全ての人が社会の中で、自分の意思で選択し活躍し、それを妨げられないようにしていく」でいいんじゃないのかなと思う。人は男や女という性別ありきで存在しているわけではない。それぞれが現在に至るまでの様々な相互作用の中で存在している。その中の一つが性別である。
女子アナの違和感とは、こうした事実を捻じ曲げ極端にその性を強調した(される)ところにあるのだろう。だから、可愛ければ誰でもいいし究極的にはニュース原稿を理解する知性すらもいらない。女子アナ本人の言葉はむしろ邪魔なものでしかない。だがそうした役割はなにも女性だけにさせる必要はない。男子アナという言葉がないのもおかしな話ではないか。
だが一向にこのシステムは変わらない。テレビ局は女性活躍を歌っておきながら、その活躍とはつまるところ「自らの権益を脅かさない程度のもの」しか許容する気がないようだ。そしてこのことは何もテレビ局に限ったことではない。
ここに建前とは明らかに異なる日本社会の実相があるのである。まさに虚像と呪縛である。

「この不平等な世界分割を通じて、女は美と無邪気さを所有し、男は行動と労働を所有する。男は過去を有し、女は瞬間を生きる。女は生命を伝達し、男は世界を創る」

「女性が一切であるというのは、明らかに、男性の脳髄の外では女性がなにものでもないということである。女性はなにものでもない、男性の『こしらえたもの』にすぎない」


ゴーチエ「シュルレアリスムと性」より

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