「文学におけるレズビアン」
異性愛を基調とする社会構造の中において、同性愛とは長きに渡って異端なものであった。現代ではその違和感というものも、幾分は薄れているだろうが、未だ男女という排他的対関係(モノガミー)は強固な単位であり続ける。性という要素は、ヘテロセクシャルでもゲイでもレズビアンであっても、やはり主要な要素なのだ。レズビアンというものは、狭義には個人のセクシュアリティの一要素であるが、これを社会的な文脈に置き換えると、それは一つの現象になる。女性同性愛とは、いかなる現象なのであろうか。さらにこれを文学という枠の中で考えると、問題は一層複雑である。
伊藤氏貴の「同性愛文学の系譜」の中に、「女性同性愛の文学」という項がある。その中で、同性婚というものに触れる中で伊藤は「政治とはなんとも厄介な代物で、利用しようとしている当人が実は逆に利用されてしまっていることもままある」と指摘する。東京ディズニーランドで同性婚を挙げたカップルを引き合いに出し、「彼ら」自身に見えない枷を嵌めているのではないかと伊藤は書く。さらに伊藤は、「ここは彼らではなく彼女らとすべきだろうという意見もあるかもしれないが、この際、西洋語にあわせて造られた彼女という言葉自体が廃されるべきではないか」と詳述する。「かれ」という言葉そのものは、男女の別のない三人称である。そもそも彼から彼女へ派生すること自体に旧約聖書のアダムとイブに内包される政治性が潜在しているのだ。伊藤はこうしたことを前提に、文学上極めてその記述の少ない「レズビアン」について考察していく。
同じ同性愛でも、男性同性愛は日本の近代において、趣味嗜好→通過儀礼→病→アイデンティティ→人種という変遷を辿ってきた。
いうまでもなく、同性愛は主流の異性愛に対してはあくまでも傍流であり、平等であったことはない。その中でも特に女性同性愛は男性同性愛とも異なる史実を歩んできた。男性同性愛が最終的に人種という形態になったのに対し、女性同性愛はそもそもこれを表す語が「レズビアン」のみであることが大きな問題であると伊藤は指摘する。これは、女性同性愛が男性同性愛にはない三つの抑圧を受けたからに他ならない。その抑圧が女性同性愛を複雑にし、隠蔽もしたのだ。それは、自我と自由、性の問題である。これらの抑圧は、女性自らに抑圧と感じさせないほど錯綜としたものになっていく。
こうした中で、女性同性愛は、主体性と性を奪われ、ある時は男性の消費財となることによって生き延びてきた。女性にも主体的な性欲があることを描いた作家に谷崎潤一郎をあげることができるが、なおも当の女性自身が自らの抑圧のトライアングルを受け入れてしまっていた。そこから解放されるためには、女性たち自身の声を必要とした。この三つの抑圧から免れた作品として、伊藤は松浦理英子の「ナチュラル・ウーマン」を取り上げる。この作品は主人公の「私」が三人の女性と関係していく連作集である。私と恋人の花世の会話の中で、「私、あなたを抱きしめた時、生まれて初めて自分が女だと感じたの。男と寝てもそんな風に思ったことはなかったのに」という言葉が出てくる。ここに伊藤は、「抱きしめる」という行為に主体性と性があり、それは自然な感じのまま行われていることを指摘する。また、二人の関係は異常を売りにした消費財でもない。ここから二人の同性愛という関係は、アイデンティティから人種へとなっていくのだろうか。伊藤はこの主人公にとって、同性愛というセクシュアリティはアイデンティティとは関係がなく、女というジェンダーさえも無関心、無関係なものとして扱われていると指摘する。もはやアイデンティティという疲労した制度の彼方にいるのかもしれない、とも書く。
女性同性愛の特徴は病からアイデンティティへの通過が見えにくいところにある。異常視されていることは分かっているが、そこにそれほど葛藤や煩悶はない。病の意識はあるものの、アイデンティティを生み出すこともなく、人種化の志向も強くない。すでにアイデンティティというテーマそのものがいささか古くなり、アイデンティティ制度そのものが疲労している面も否めない。だが、多くの文学作品における女性同性愛者は、男性とも関係を持っている/いたという事実がある。そこでは、同性同士の関係はもはや「レズビアン」として語られない。このことは何を意味するのだろうか。
ここで私は政治性というものについて、考えを巡らせた。伊藤が述べたように、彼/彼女の構想における政治性は、性愛関係においても顕著である。そうしてみると、女性同士の親密な関係における病やアイデンティティという政治性を帯びたフェーズの曖昧さはやはり注目すべきものだろう。これについて、私は最初政治性の不在ゆえにこうした形を取るのだろうかと考えてもみたが、どうも奇異に感じる。女性一般が歴史上置かれていた立場を思い起こしてみるならば、その生涯とはむしろ政治性の枠内によって生かされ、定義づけられ、許されてきたと言えるだろう。それは、女性同性愛における三つの抑圧がそのままヘテロ女性の性にも当てはまることとも無縁ではない。政治性の不在ではなく、むしろ強固な政治性を前提とした関係性と、これによる意図的な排除、それもあらゆる関係性や社会活動の中心からの排除によって、女性同性愛の特殊性とは成り立つのではないか?
排除された女性という性の中で、レズビアンであるということはさらなる排除をも生んだ。文学上このことが創作の糧にならないはずはなかったはずだが、その記述は多くはない。だが、私は松浦理英子のような女同士の関係性への視野こそレズビアンという語を新たな地平へと拓くものなのではないかと思う。伊藤の松浦作品への主人公への評価は的確なものであると思う。伊藤は触れていないが、この主人公は恋人たちから散々に罵られる。主人公は、自らの女という単位にも無関心で無頓着であるかのように振る舞う。そして、好きになった女にはどんなこと言われてもされても(無理やりアナルセックスをされる場面もある)、それを受け入れる。主人公のこうした姿勢は女性たちのある部分を逆撫でする。一見すると素直で徹底的な受け身な主人公は、傲慢と支配との表裏一体となる存在であることが話が進むにつれて分かってくるのだ。女性性の象徴でもあるかのような、徹底した受け身はある地点を過ぎると、相手を飲み込み支配し、しかも自らは徹底した被支配者であるかのように振る舞う傲慢さを帯びていく。このことを鋭敏に知覚するのもまた、女性ならではの関係性であるといえよう。だが、松浦はレズビアンという文脈の中にこれを落とし込まない。これは普遍的な人間同士の関係性という単位に翻訳、還元され表現される。当然、病やアイデンティティという要素とも合致しない。だが、表面的には女性同士の関係性であり一般的にレズビアンであることの指摘は免れ得ない。それでも松浦はあくまでレズビアンという要素を一顧だにせず、これを人間同士の関係性という問題として扱う。これは新たな地平であり、文学であろうと思う。そして、これが女性作家によって描かれ続けていることも、一つの現象ではないか?
ここに至って、レズビアンとは女性同士の関係性を超えたより普遍的な現象として私たちの前に現れたといえないだろうか。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?