「人智学的障害学」


突然だが、私は現代の個人主義は行き詰まっていると思う。
歪な自己責任論と自由主義とが現代の個人主義の2大柱であると思う。自由主義といえば聞こえはいいけれど、要は相互的無関心である。それは家族と社会が核家族になり、子育てから教育、介護に至るまでが高度に細分化され、専門化されたことと無関係ではないだろう。隣に誰が住んでいるのかすら分からない。そして分からぬまま、隣人は入れ替わり立ち替わりしていく。一言も言葉を交わさないままであることも珍しくない。
その中で、人の単位は家族から個人へと細分化された。そうなると、この社会の中で起こるさまざまなことは全て個人の責任と選択へと還元されていく。基本的にこの社会は自由であるのだから、その選択権を持ち得るのは個人でしかあり得ない。そして、それこそが現代的価値なのである。この「現代」の想定する人間像は合理的なホモ・サピエンス以外にはあり得ない。その圧倒的多数の合理的サピエンスによって、この社会は成り立っている。こうした意識は大前提なものとして、私たちに共有されている。こうした社会の中でどのようなことが一方で起こるのかといえば、あらゆる社会制度の均一化と画一化、そしてそこからはみ出る人々へのある種のバイアスや社会的排除である。
昨今になってこうしたマイノリティの側からの権利擁護運動が喧しくなっているのは、まさにこの個人主義がすでに限界となりつつあるからである。私はそんな風に思う。
さて、私は人という生き物を相互作用的なものだと考えている。いくら家族から個人へ、アンペイドワークから専門化へと社会構造が移り変わっても、この本質だけは変わらないのではないか。人は常に他者の中にあって生きてきたし、これからもそうであり続ける。それこそが人間が文明や高度な社会集団を築けた理由だ。そうした中で、改めて「障害」という概念はいかにあるものなのだろうか?
最初に私の考えをここで書いておくと、私は障害とは個人の中にあるものではなく、そうした現象を取り巻く環境の中にこそあると思っている。有り体に言えば、それを「障害である」と捉える社会の中にこそ障害はあるのだ。これは障害の社会モデルと呼ばれるものだ。対して、日本で行われている当事者に障害の分類を当てはめていくことは医学モデルと呼ばれる。
このことについて考えるとき、私は「レスビアンの歴史」という本の中で著者のリリアン・フェダマンが書いていたことを思い出す。

「病の概念は、ある状態がある状態よりも劣っているという前提によって定義される」

この「ある状態」とは言うまでもなく健常者をさしているだろう。なにが言いたいかというと、結局医学的に結論されたと「思われている」ものであっても、その前提概念はその社会の価値観や信条によって容易に変わりうるということだ。そして、当の社会自身が変化をしていく中でももちろん変わっていくものである。
たとえば、アフリカの奥地へと行けばデベソの子どもは障害児として扱われる。彼の地では衣服を身につける習慣がなく、またジャングルの中で狩猟をすることが日常生活であるから、身体の急所であるヘソが飛び出していることは不都合であるからだ。
障害という概念は、医学的な概念ではあるがその医学というものも、俯瞰してみれば広く社会的な領域の一つに過ぎない。このことは、あまり意識されていない。ゆえに、障害という概念は医学的に理解されるのみでは足らず、広く人間学的に理解され受容されるものでなければならないと思っている。医学という高度に管理された概念でもなく、昨今言われるような個性や多様性という一見耳障りの良い言葉で分かった気になるのではなく、より幅広い概念を統合した新たな「障害観」が必要であると思う。


そんな中で、ルドルフ・シュタイナー「治療教育講義」を再読した。
シュタイナーは障害について、「人間の謎がこの子を通して表面に現れています。このような障害は人間の生命だけでなく、全宇宙の生命にまで光を投げかけています」と捉える。人体に潜んでいる異常性は、人間本来の霊性を外に開示をしているからだ。その意味で古代の人々にとって、教育と治療とは本質的には同じものだったのである。
改めて、障害や異常性とはいかなるものなのだろうか?
シュタイナーは、表面上の異常性や障害とはあくまで「魂」の在り方が外面に表出されたものに過ぎないと唱える。魂とは全ての人が持ちうるものであり、障害や異常性とはそれが身体的表現をどれほどコントロールできているか/いないかの違いでしかない。要はグラデーションの問題である。こうして考えると、命あるものは全てなんらかの病気なのである。
こうした次元での疾患の概念は、そのまま全ての人類に当てはまるものであり、やはりその意味で教育と治療とは同義である。
私たちのやるべきことは、疾患を分類し名前をつけ、パラフィン紙に患者名を書き込むことではない。未だ微睡みの中にある魂(霊性)を呼び覚まし、肉体を支配できるように、その人間に合わせた教育(治療)を根気よく行うことであ
る。

「この子のことを私が知って思ったのは、この子の体と魂にふさわしい教育をしよう、それによってまどろんでいふ能力を目覚めさせよう、ということだった。……次第に魂が身体表現を支配できるようにしていかなければならない。魂を身体の中に入れなければならなかった。この少年はまだ隠されているが、偉大な精神力を持っている、と確信できた。……そして分かったのは、教育と授業とを真の人間認識を基礎にする芸術にしなければならないということだった」

これはアルブレヒト・シャトローシャイン「人智学的治療教育の成立」の中において言及をされていた箇所である。
また、シュタイナーは言葉の持つ重要性についても説く。

「成長しつつある子ども、特に障害を持った子どもは、純粋に、そして明瞭に語れる、ということが非常に大切です。何らかの仕方で言語が堕落させられることを、決していい加減に考えてはなりません。障害のある子どもに対しては、どんな時にも明瞭に形成された言語を用いることを原則とします。……子どもの周囲で良い話し方がなされるのは、とてもいいことなのです。7歳から14歳までの障害児にはできるだけたくさんの良い言語、良い朗唱を提供することが大切です。繰り返して良い言語を障害児に提供することは、異常であることの内的本質が求めていることなのです」

これは単なる記号としての言語のみならず、いんゆるノンバーバルコミュニケーションをも含んでいるとみるべきである。
療育者(教育者)の対話をしようとするその姿勢こそが、すでにある種の言語であり、教育なのではないだろうか?
そして、この対話の姿勢は障害児のみならずまさに人類全体の病理である。こうすると、障害の概念は異様なものに対する定義ではなく、人類学的な一つの定義となる。そこでは誰もが省かれるものではなくて、平等なカウンセリングで言うところの「漂う注意」ともいうべき眼差しの中に置かれることになる。
ここに人智学の息遣いを感じることができるのだ。


シュタイナーやシャトローシャインの言説を見て、私が本当に嬉しいことは彼らが科学的でありながら(彼らは実際に複数の障害児を療育しその内の1人は大学を卒業している)、しかし一方では絶対的な人間学的な見地に立っていることだ。
疾患それ自体によって、その人が定義されるわけではない。ましてや治療や教育の対象となるわけでもない。
この病理を全人類学的なものと見做すことができるならば、私たちはより公平で安息とした思考の地平へと至れるのではないか?
魂とは、現代風にいうならば自己認識である。
その魂の本質的な所在はいかなるところにあるのだろうか?
それは科学的に整理された概念でありながら、なお宗教的なところから抜け出ることのない誠に不思議なものだ。以前何かで読んだものの中に、「人の精神活動の中で最も高次なものは祈りである」とあった。私もそう思う。
そうしたものによって、私たちは存在をし生きている。誰もその射程から省かれるべきではない。

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