「労働と生の固有性」
「労働の中にある徹底した非人間性」。
シモーヌ・ヴェーユは女工として働く傍らに記した「工場日記」において、固有名詞を持った人間があたかも単なる部品として扱われる工場労働に見られる非人間性について思索をした。
厳密にいうならば、冒頭の労働とは工場労働を指すものだが、これは労働一般にもいえることだろう。ヴェーユの透徹した眼差しには、労働の中に潜む徹底した非人間性がありありと浮かんでいたことだろう。
人間性を排除するなにものかが、労働というものの中にあることは恐らく社会の中で働いていれば誰しもがぶつかることだろうと思う。私もここ最近そうしたものについて考えている。
そもそも労働とは縦型のピラミッドを基調として、組織的に画一化され、均等化された行動を指す。そこに金銭が発生するとあれば生産と消費、そして採算というカルテットが有無を言わさず成立し、人間という有機体も部品として扱う方がむしろ都合がよい。その非人間性の対価とは賃金という形で成り立ち、これによってカルテットは「労働」としての機能と役割を果たすわけである。
昨今ではより質が悪く、この対価というものの抽象化が著しい。「やりがい」といったものがその代表例だろうか。やりがい搾取という言葉もあるくらいだから、こういったものに対する批判もあるにはあるということだ。
使い捨てのビニール手袋を眺めていると、ふと自分もこれと同じようなものなのだ、と感じることがある。結局のところ、人は労働というシステムの中にある限りは1個の部品であることは免れないのではないか。だが、人の生というものは本質的に固有性を有している。それは、「その人にしか生きられぬ、侵されざる(侵すべきではない)、生」ではないのだろうか。
だが労働における固有性の関係を考えてみると、それは取り替えのきく部品としての性質を阻害するものとして浮かび上がってくる。私はこれに抗するべく、「生き」ているわけだけれど、時にとても疲れる。ほとんどの人はこの非人間性に馴らされてやり過ごす。
非人間性を抱えた労働とそのシステムに迎合する人間の最も恐ろしいところは、他者に対しても同じように振る舞うことに躊躇いがないことだ。そして、それは再生産されてとめどなく続いていく。出世のために平気で人を踏み台にして厭わない人間の醜さというものに、私は慣れることができない。そして、そうした人々の無数の蠢きで生き永らえている労働とそのシステムというものの非人間性というものに、ぞっとする。
それは私が蒼いせいなのか、潔癖なのかは分からない。ただこういった労働に潜む非人間性というものに染まらないでなるべく生きていきたいと思うだけである。