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「対話的関わり」あるいは、buffer

はじめに
私は障害福祉の領域で働いている。福祉にも色々と領域があって、児童福祉、高齢者福祉と年齢によって分けられる。さらに福祉的支援にも発達支援から就労支援、相談援助、移動支援、身体介護などその人がどんなサービスや支援を必要とするかでも細分化される。福祉職というのは、子育てや介護が家族という単位の中で賄うことが難しくなってくる中で、生まれた職業、専門職の一つであるだろうと私は考えている。子育ての社会化/介護の社会化という言葉が使われて久しいが、社会化とはそのままこうした対人支援が専門職化され、サービス化され、細分化されることを意味している。

支援関係のなかで
とはいうものの、対人支援という基本構造は相手が子どもだろうが、高齢者だろうが、障害者だろうが変わらないと思っている。私ははじめ、障害者入所支援施設で働き、職業指導を経て、今は地域活動支援センター、放課後等デイサービスで働いている。子どもから大人まで、主に障害を持つ人を相手に働く中で、最近考えていることがある。

敢えて隙をつくる、逃げ場をつくる「ゆとり」をつくることは、対人支援の現場においてやはり必要なことではないだろうか?

自分でできることを敢えて職員を呼び止めてやってくれと頼んでくる利用者がいる。そこで、「自分でできるでしょ」「甘えないで」と言うことはとても簡単だ。そして、自立支援という視点から見ると、これは一見して「正しい」。
そんな一人の利用者が、最近私を呼び止めてなんやかやと世話を焼いてもらいたがる。これを見ていた一人の職員から、「まるで家政婦みたいだね」と言われる。この一連の流れでふと思ったのが、先述した「敢えて隙をつくる……」につながるのだ。

対人支援の基本は基本的信頼関係を基盤に、その人のニーズに沿った支援を行うことだと思う。だが、私はもう一歩踏み込んで、「声なき声、声になる前の声をいかに聴けるか/聴こうとするか」という姿勢が、最も支援職が持つべき意識であると考えている。
正しいことを言うのは簡単だが、正論は時として人を追い詰める。支援する側とされる側に流れるある種の「逃げられなさ」(これは特に支援を受ける側が抱くもの)というものに、無頓着な支援者は驚くほど多い。
イマヌエル・カントが指摘したように、「親切というものは、それを施す側の優越感と受ける側の屈辱感で成り立つ」側面がある。これはそのまま福祉現場における支援関係にも当てはまることで、優越感/屈辱感という言葉はどぎついけれど、一種の権力関係があると理解すれば良い。それらは様々な形をとって支援関係の中で展開をされるが、こうしたことに鋭敏さをいかに保ちつつ、目の前の利用者の訴えを「聴ける」かということが、支援の質を大きく左右するのだと思う。

自分でできることを、敢えて他者にやってもらおうとすることの背景になにがあるのか?

こうした行為を「甘え」や、さらに応える行為を「甘やかし」と断ずることはできるし、それが当てはまる場面もあるとも思う。だが、そうでない場面もまたあり、対人支援の現場というものは、必ずしも1+1=2にはならない難しさがある。
支援として踏み込むなら、「なぜこんなことを言うのか/求めるのか?」という点について、やはり言葉になる前の背景を考える必要があるのだと思う。その一方で、「家政婦のようだ」と断じられる「見え方」もあり、このギャップはいかにして埋めることができるのだろうか。

会話と対話の違い
最近考えるのは、会話と対話の違いについてだ。会話というものは、明瞭な目的や求める結論があり、そのための手段としてなされるものである。対して対話というものは、目的や結論を求めて行うものではなく、人と人が相互に関わること、それ自体を目的として行われるものである。
私は福祉の現場における「良い支援者」あるいは、「良い支援」というものは、この「対話」を基盤として展開されるものではないだろうか?と最近考えている。良い支援者は対話をするのが上手いだろうし、良い支援はどこまで対話ができたかで決まりそうである。
だが、この対話というものはまどろっこしく、曖昧で展開されるためには、ゆったりとした余裕が必要である。これは特に支援者側にとって必要な要素であって、現実のリアルな現場ではとてもそんな余裕などない!というのが実情に近いと思う。特に介護現場など直接支援の現場ほど、こうした余裕は少ない。だが、支援を受ける側は肉体的精神的な接触の面積が大きいほど、「対話的関わり」を求めるニーズが潜在的に高いのも特徴であると私は思う。このギャップは双方にとって非常にしんどいものであり、支援者側からすると、「なぜこんな要求ばかりするのか」となるし、支援を受ける側からすると「なぜ分かってくれないのか」ということになる。
支援関係におけるなんとも言いようのない、閉塞性や怒りというものは、この「ゆとり」「隙」のなさにあるのだと思う。
この息苦しさを抱えたまま、支援関係が継続すること、あるいはそうした空間が続くことが何を意味するのか。そして、それが福祉の在り方として良い形であるのか、ということを私は今批判的に考えている。
だから私はたとえ「家政婦」と揶揄されても、「対話的関わり」は持ち続けておきたいと思っている。単なる甘やかしとも、正論で突き放すということとも異なる、「声なき声を聴く」ことを目指して。

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