「ゴッホの魂」

初めてゴッホの手紙を読んだ時、直観的に「こういう感性の人間は長生きはできないだろう」という、諦念にも似た感情を抱いたものだ。それは黄色の絵の具に込められたゴッホの手紙で、彼は黄色という色に「宗教的なものを感じる」とまで語る。その直向きな思いは、痛々しいまでのゴッホの純粋さと不器用さを伝えていた。それはゴッホの作品にも如実に表れている。
彼の描く星は、初めの頃こそ微かに瞬くだけだったが、「星月夜」を描く頃になると、不気味に渦を巻くようになる。それは年々不安定になるゴッホの精神状態と困窮していく生活を反映するかのようであった。
日本の会社がバブル真っ只中に、かの「ひまわり」を50億円以上で落札したことは知られている。だが生前のゴッホは1作品しか売ることができなかった。彼の名声はその死後に高まったのだ。皮肉めいて思えるこの歴史は、より一層ゴッホという芸術家の持つ劇的さを感じさせるに十分ではないか。
小林秀雄の「ゴッホの手紙」を読むと、ゴッホの作品というものはそのまま彼の精神そのものであることが分かる。このことは、芸術家を芸術家足らしめている「個性」というもの、その舞台装置としての時代についても考えさせる。ゴッホは孤独で不器用であった。はじめ彼は聖職者を目指すが挫折し、画家を志す。彼にとって憧れの存在はジャン・エヴァレット・ミレイであった。ミレイの「種蒔く人」をゴッホは繰り返し模写をしている。そんな彼が夢見て芸術家仲間にシェアハウスをしようと手紙を出すが、唯一答えてくれたゴーギャンとも遂に仲違いする。精神的に不安定になり、発作も繰り返す中で自殺の直前はゴッホは不気味なほど落ち着いていたそうだ。そんなゴッホは拳銃自殺を図る。即死できず、一晩は生きた。無言で煙草を求め、それを喫んだ。そんなゴッホの唯一の理解者であったのが弟のテオだ。ゴッホを看取ったのもテオであった。そんなテオが母親宛に、兄の自殺について送った一節がある。

「この悲しみをどう書いたらいいか分かりません。何処に慰めを見つけたらいいか分かりません。ただ一つ言えることは、彼は、彼が望んでいた休息を、今は得たということです……人生の荷物は、彼にはあんまり重かった。しかしよくあることだが、今になって皆彼の才能を褒めあげているのです。……ああ、お母さん、実に大事な、兄貴だったのです」

テオにとっても兄の自殺は重過ぎた。彼自身も精神を病み、精神病院で翌年に亡くなるのだ。「彼は、彼が望んでいた休息を、今は得たということです」。
ゴッホの作品に、「カラスのいる麦畑」というものがある。ゴッホ晩年の作で、どこへ行くとも知れないカラスと麦畑、不穏な色の空は鑑賞者に不吉なものを予感させる。ゴッホ自身の孤独と不安と死の予感とがカンバス全体から漂うようだ。私は「星月夜」の渦巻く星々と並んで、この「麦畑」はゴッホ自身の内面を能弁に語っていると思う。
小林秀雄はこの点について、「私の実感からいえば、ゴッホの絵は、絵というよりも精神と感じられます。私が彼の絵を見るのではなく、向こうに眼があって、私が見られているような感じを私は持っております」と書く。
ゴッホ作品の持つこうした特異な精神性。つまり、彼に終生付き纏って離れなかった孤独と不安、死への予感はそのまま私たちの内部に在る普遍的な基盤である。それは画家の眼差しとして、私たちに還元される。表面に立ち上ってきたそれらを、私たちは単なる鑑賞者としてではなく、生身の人間として受け取らねばならない。そうした力が、強烈に批判をされたゴッホの筆致にはあるのだ。それは時として狂気として人には映った。ゴッホの抱えていた苦悩と苦痛は、希釈されることなく外の世界へ向けられていたがゆえに、彼は孤独でしかなかった。

「正気と狂気との交替を生きねばならぬという明瞭な意識だけが、信ずるに足るものなのか。……ゴッホの凝視力とは、精神の集中とは、そういう問いに他なるまい。……突き抜けて、誰も彼もがそれと気づかずに立っている生の普遍的な基盤、生きている或る定かならぬ理由に触れて了う……ここに、芸術家の個性というものの一番興味ある働きがある、と私は解します。問う人が少ないのです。もし強く執拗に自己に問うなら、誰も正気などと安心していられないのが自己の姿ではないでしょうか」

小林はゴッホの精神にも触れながら、同時に芸術家の個性にも言及する。小林の言葉を読んでいくと、個性と思想性とが密接に絡み合っていることが分かる。「生の普遍的な基盤」とはなんだろうか。
その一端こそはゴッホの生涯そのものに反映されているだろう。孤独、不安、死である。だがゴッホが敬愛するミレイや、ミレイが題材として描いた貧農へのゴッホ自身の眼差しの中にある純粋と希望、信仰といったものと両面的な孤独、不安、死とここでいうことができるだろう。表層的に見るならば、これらはゴッホ個人の内面の問題だ。だが、これらはゴッホ自身の作品を通じて一個人の内面という問題を飛び越えて普遍的な精神性を帯びていく。
これは同時に芸術家にとっての自己表現の問題にもつながっていく。このことについて、小林は「芸術家を芸術家たらしめているもの即ち個性の問題は、個人主義のイデオロギーの問題でもなければ、社会学的環境から、いや生理学的領域は心理学的環境からさえ説明し尽くせる問題ではない。浪漫主義の時代に『自己告白』の形をとった個性は、実証主義の時代にも新しい認識の下に『自己証明』の形で生きねばならぬ」と指摘する。
告白から証明へ。ここに、時代の変遷がある。ゴッホは自らの芸術、あるいは精神というものを社会に対して示そうとした。だが、ゴッホの生きた時代は告白の時代であった。その中にあって、ゴッホは繰り返し自らの在り方を証明し続けようとした。しかし、それは早すぎたのだ。ゴッホの証明とは、人間の証明である。それこそが唯一無二のゴッホの個性であり、芸術なのであると思う。

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