「死生観」
日野原重明・山本俊一著の「死生学 全3集」を読む。とても分かりやすく、「死」について書いてあった。そして、実践的なものであった。以前読んだ、エリザベス・キューブラーのことにも触れられていて嬉しかった。死を受容するプロセスについてである。
否認、怒り、取引、抑うつ、受容の5段階がそれだ。この辺りのことはキューブラー著「死ぬ瞬間」に詳述してあるのでここでは触れない。
死というものについて考えるとき、まだ20代の私は祖母を看取ったくらいで、死そのものはまだどこか遠くにある。このことについて思い出すのは、在原業平の歌である。
「つひにゆく道とはかねて聞きしかど、昨日今日とは思わざりしを」
死とは、そんな風に訪れるものなのかと私はこれを読んだ時感じたものだ。
私事だが、仕事上で死というものに触れる機会があった。詳しい内容は書けないが、とても考えさせられたことだった。看護でいう「看取り」というものではなかったが、終末期に入っているひとりの人と、どう向き合うことがいいのだろうか。また、向き合うことができるだろうか。
その答えは簡単には出ないものだ。だが対人援助のフィールドにおいて援助者とは、1人の専門職、人間という枠にとどまるものではない。環境としても援助者は作用する。
専門知識ももちろん大切だが、それ以上に大切なのは、どのような人生観、人間観そして死生観を持つかだ。私はこのことを痛感した。これらは知識というよりかは、教養と呼ばれるものである。だがこうしたことは体系だって学ぶ機会は多くない。ともすれば、自らの専門知識でもって「分かった気になる」ことのなんと多いことだろう。
日野原重明は、「死生学」より「死の医学と看護」の中において以下のように書く。
「我々の目の前に死んでいく患者は詩人であったり、哲学者であったり、あるいは熱心な信者であったりする。それらの人が死んでいく時、そのケアをする医師やナースに感性がないとか、哲学がないとか、宗教に対して理解がないとかいう状況であると、死にいく患者に本当にタッチできにくい。患者は様々な姿で死んでいくので、医師やナースはそれらの死に対して、それぞれ個別のケアをしなければならない」
私はこの箇所を何度も読み返した。そして、その度に「ああ、その通りだ。その通りだ」と頷いた。
感性とは言い得て妙だなぁと思う。対人援助において、職歴や資格は必要な条件かもしれないが絶対的な条件ではない。その経歴を真に活かすものは感性、つまりセンスである。
「哲学がないとか、宗教に対して理解がないとかいう状況であると、死にいく患者に本当にタッチできにくい」。
このことは今後ますます問われてくるだろう。哲学と宗教は、人間性の2大側面だ。だがこれは援助者についても言えることだ。
ヴァイツゼッカーの言葉に、「生命に携わる者はその生命に対する哲学を持て」というものがある。これは、日野原先生の書いてあることにも相通じるものである。対人援助は綺麗事でできる仕事ではない。看護でも介護でもそれは同じである。その真の過酷さとは、表向きの業務ではなく、より深い人間性つまり宗教性や哲学性を最も鋭い形で問われるという点にある。そして、それは日常的に触れられるものである。
社会福祉学を最近ちまちまと勉強するようになったけれど、この学問の目指すところも実際的なものから、より抽象的なものへと移行している。各人の人生の背景を踏まえた疾患や障害の理解、そして障害そのものを特性(個性)と捉え直すパラダイムシフト……。言葉で書くと当たり前のことのように思えるが、これを実践することはとても難しい。
医学的に定義づけられた疾患や障害を一つの属性として、全体的に個人の背景を捉え直すこと。トータルバランスで目の前の人を捉え直すことは、当然援助者の持つ価値観と相容れないものもある。だが、それを求めるのがこれからの社会福祉学であり対人援助の仕事である。
日野原先生は「貴方がケアをしている患者と同じ状態におかれる日が、あなた方にも必ず遠からずやってくる」とも書く。これは若い看護師に向けられた言葉であるが、全ての人に通じるものである。
死は平等に訪れる。そして、予期せず他者の死に触れることもあるだろう。その時問われるのは、各人の持つ人生観であり、人間観、死生観である。
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