松浦理英子:フェミニズム


松浦理英子の名前は、小説「ナチュラル・ウーマン」で知っていた。これはレズビアン小説として名高く、松浦理英子という固有名詞もイコール女性同性愛小説家と同等の意味合いを持っていた。
だが、松浦自身はそうしたレッテルには否定的で本人がそのように自称したことはない。また、件の「ナチュラル・ウーマン」にしても作中のレズビアニズムやレズビアンセックスというものが目を引くが、主題はそこではない。それはどこまでも泥臭く、打算と傲慢と寂しさに溢れた人間同士の関係を描くことに主眼が置かれている。「ナチュラル・ウーマン」はたしかにレズビアンと呼ばれる女性たちの物語ではあるが、イコール女性同士の性愛を描いたものではないという複雑性にこそ意味合いがある。松浦の小説には、そういった手の込んだ仕掛けじみたものが存在している。
後年読んだ「最愛の子ども」は、思春期の少女たちを描いた作品であることもあって、「ナチュラル・ウーマン」ほどの泥臭さは感じず爽やかに読めた。


松浦は遅筆であることで知られているが、彼女の小説を最後に読んだのは大学生の頃であったと思う。ゆうに3年くらいは前だろうか?
久しぶりに松浦の名前を見た文章をつい最近読んだのだが、それは作者本人の作品ではない。現代思想3月臨時増刊号の「フェミニズムの現代」において、郷原佳以の「非性器的センシュアリティを呼び戻すために 松浦理英子論序説」がそれである。
郷原は松浦の小説群と特徴について軽く触れた後で、松浦を「マイノリティが存在することを当然として丁寧に描いてきた、しかもそれを流行のトピックを取り上げることとは無縁な中で」示してきた現代作家であると称する。また松浦は、「マイノリティを外側から提示する物語の暴力」について敏感である。
松浦の作品群は、単なる同性愛が主題なのではなく、同性愛という現象を通した「非性器的な触れ合いの諸相を描くこと」にこそ主題がある。これを郷原は、非性器的センシュアリティと呼ぶ。
もう一つ興味深いのは、生理について松浦自身の言葉である。
「そんな面倒くさいことは、何歳まで続くのか」
毎月繰り返される生理とは、いわば「妊娠の失敗」の結果である。そして、生理を妊娠可能性という特権を持った女性の象徴ではなく、「面倒なもの」と認めることは、女性器を男根中心主義的な物語から解放することではないか。松浦のこうした思想を下敷きにして、郷原はさらに興味深い議論を提示する。
それは、1992年3月号「朝日ジャーナル」にて安達哲との対談において行われた発言である。
「強姦程度で、今、仮にもいい女がへこたれるもんかっていうような思いがあるな」と、安達が発言すると、松浦はこれに同意する。レイプとは性欲の発散ではなく女性憎悪者の感傷的快楽であるから、最も屈辱的なのは加害者である男性が「傷つけてやったっていう顔をすること」であるという。「フェミニストも、レイプは女性に対する最大の屈辱であるなんて言わないで、もちろん不愉快極まりないことなんだけど、そんなことは何でもないって、もっと言っていくべきだと思うんですよ」と松浦は言う。
このやり取りに「朝日ジャーナル」には抗議の声が殺到する。これに対し、松浦は「レイプ再考 嘲笑せよ。強姦者は女を侮辱できない」を寄稿する。
松浦は、「レイプによって女を侮辱しようとしても、期待するほどの効果は上がらない」とし、「レイプは女性に対する最大の侮辱とは、私は口が裂けても強姦されて膣が裂けてもいいたくない」と主張する。そして、「最大の侮辱」云々の言説は女性の意見というよりも「女性差別=男根主義社会が幾多の因習的役割を女に押し付けた紋切型観念」であると松浦はいう。松浦の主張は、以下の4点に集約される。

1.強姦とは、女を侮辱することが目的である。したがって、強姦の惨さを一辺倒に説くだけでは加害者たちの意識は変わらない。
2.また、従来の紋切型では裁判において被害者が事件後に比較的冷静であったことが和姦の根拠にされてしまう恐れがある。
3.「あなたは女として最大の侮辱を受けた」ということは極めて無神経である。
4.強姦とは、「強姦者が性的に女に支配されている情けない男であることを示すもの」に他ならず、必要なのは「強姦者の情けなさを自尊心を持って軽蔑すること」である。

このように見ると、安達と松浦は、強姦を免罪するどころか嘲笑断罪するものではないだろうか。またこうした松浦の主張に浴びせられるだろう「あんたもレイプされれば考えが変わる」という批判に前もって痛罵している。
「(そのように)いう女こそ、『お前だって一発やられりゃ生意気な口もきけなくなるだろうよ』と脅すタイプの男にピッタリのパートナーなのだ」
松浦のこうした主張は、異性愛男性中心主義的にできているマジョリティ社会の物語の徹底的な拒否である。それは、松浦の小説に出てくるマイノリティたちが出てこないことにもよく現れている。「同性愛者は成長の過程で自分が同性愛者だと気づいた瞬間に悩むはずだ」というのも一つの偏見であるからだ。それは、2001年でのシンポジウムでの発言にも現れている。
「私はマジョリティ社会に奉仕する文学が大嫌いだ」。
郷原はこれを松浦の「Me too」であったと総括する。


松浦の視線は、常に一貫している。それはマジョリティ社会の無意識かつ強迫的な物語についての厳しいと眼差しである。それはフェミニズム、厳密に言えばフェミニズムの内部に存在する内在化されたマジョリティ社会の物語においても同じである。フェミニズムは女性解放をうたっておきながら、従来の役割規範へと再び女性を押し込もうとするがゆえに、よりタチが悪い。松浦はそこを問題としたのではないか。
だがそれは十分に理解されたとはいえない。それは裏返せばマジョリティ社会の物語がそれほどまでに強固であることの証左だ。
松浦はフェミニズムの欺瞞性をこのように喝破するわけだが、私は違った視点で現代のフェミニズムについて考えたい。
現代思想の「フェミニズム特集」を読んで感じたことは、フェミニズムというよりか「フェミニズム界」の持つ閉鎖性である。これは以前見たAbema TVの「フェミニズム特集」でも感じたことだ。この番組は、ゲストに複数のフェミニズム研究者と、西村ひろゆき、小島慶子を迎える形で進行する。冒頭は、西村がハフポスト誌に受けたインタビューでの炎上発言について小島慶子らが発言するが、その随所に「フェミニズムについての、専門外の人らの認識・知識の甘さ」に対する見下ろすような視線が垣間見れた。本人たちは無意識だろうが、これは「教えてあげる」姿勢になり、もっと酷いと「あなたたちは何も知らない」という傲岸不遜な態度にもなる。フェミニストと呼ばれる人たちの内部に巣食う、フェミニズムの内側の人々、外側の人々とをこのように「知識の多寡、知性の高低」で暗に分断するような姿勢こそ、今に至るまで「フェミニズム」が一般社会の中で十全に理解されないことの、なによりの原因なのではないかと思う。
現代思想の「フェミニズム特集」においても、そんな空気をそこはかとなく感じ、それはフェミニズムを「ブーム」と呼び、あたかも消費社会に出現するモノかのように得意げにその歴史を開陳する奇妙な筆致に結実していく。私はそうした執筆陣になんらの共感もしない。彼ら、彼女らは松浦流に言えば「マジョリティ社会を内面化したその奉仕者」に過ぎない。
私はフェミニズムをブームであると捉えたことはないし、その代表者が田嶋陽子であるなどと思ったこともない。重要なのは、そこでなにが議論されたかである。
フェミニズムのこうした、「なんとも言えない居心地の悪さ」とは、蓋し女性解放をうたっておきながら、従来社会の権威主義と分断主義、そして性別への固執を捨てきれないところではないか?
これに対し松浦が浴びせたのは痛烈な一打ではなかったか?真に闘うべきは、こうした一切を包含するマジョリティ社会内部の規範であり、そこに存在する女性男性というものは単なる遺伝上の「程度の差」でしかない。現代思想の「フェミニズム特集」で唯一目を引いたのは郷原の「松浦論」のみで、あとのフェミニズム論には興味は引かれなかった。
これはなにを意味するのか?
フェミニズムとは、家父長制を頂点とする性別役割規範社会に対する明確な拒否と、新たな社会構造の再構築を目指したものではなかったか。世界でそれが盛り上がりを見せたのは今から20.30年ほど前であろうが、その頃は先進的であったフェミニズムも、ここに来て権威化つまりほかの学問と大差なくなってしまったということではないか。全体がそうであるとは言わないが、一面ではそうした権威化は免れていないだろう。
それは、フェミニズムの研究者たちが一様にof(-について)の姿勢を取る限り免れない。男女差別について、ではなく男女差別「とともに(with)」新たな社会と平等とを考察しない限り、フェミニズムに対する周縁化されたら人々の共感は得られまい。

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