無意識の叫び〜フロイト「日常生活の精神病理」
昨日、第13回の読書会を終えることができました。課題本はフロイト著の「日常生活の精神病理」。岩波文庫からの新訳で、フロイトには学生時代から著作をいくつか読んできただけあって親しみがあり、岩波からの出版ということもあり課題本に選びました。
本作は、言い間違いや度忘れなど日常生活における些細な、主として言語行動についての精神分析であり、そこにはフロイト理論の中核的存在ともいえる「抑圧」が影響しているとフロイトは指摘しています。
「……抑圧が動機となって引き起こされる度忘れもある」。
またフロイトは終章の冒頭において、「私たちの心的な動きのある種の不備(それらに共通する性質についてはこの後すぐに規定されることになろう)と、なんの意図もないかに見える所作とは、それらに精神分析的な検討を加えてみると確かな動機を備えており、しかも、意識にとって未知の決定要因を動機をしていることがわかる」としており、やはり無意識における心的構造を念頭においていたことが分かります。ただ一方でこのような一連のフロイト理論が現代心理学の立場から見ても考察に耐えうるかと言われれば、いささか厳しい向きもあり、科学的実証の可能なものであるか?という点について意見が出される場面がありました。
フロイトの特にリビドーや、男児の去勢不安や女児のペニス願望など、これらはのちにユングなどの離反を招くものでした。フロイトの功績というのは、無意識の発見であり、それらが私たちの心身の健康について非常に大きな影響を与えうる、というものです。この点について彼の功績は揺るがないものの、現代において精神分析を治療の第一手段とする臨床家はほとんどなく、フロイト理論はあくまでフロイト自身であったから構築できたものであり、哲学ないしは思想に近いものではないか、とも個人的には思います。
フロイトの精神分析といえば、長椅子に座っての患者の自由連想が有名ですが、この点について、キリスト教における告解のようなものだ、との意見が出される、非常に興味深い視点だと思いました。
ちょうど医学書院刊行の神経心理学コレクション「ドイツ精神医学の原典を読む」を読んでいますが、本書において、ドイツ精神医学は戦前のヨーロッパにとって先導的立場であり、ドイツ語圏からは優れた精神科医や分析家が多数輩出されていました。日本もドイツに倣い、彼の地からドイツ人教員を多数招聘したそうですが、第二次世界大戦以降、ドイツ精神医学はアメリカ精神医学及びその他欧米の医学に押されて日本では非主流な存在となったと変遷が書かれていて興味深い点でした。フロイトもオーストリアの人ですがドイツ語圏の人であり、当然キリスト教圏の分析家です。そして、性を抑圧するキリスト教文化圏の分析家の理論が、性エネルギー(リビドー)を人の生の根源的要素と位置付けたのは、なにか示唆的なものを感じます。精神分析のこのような文化的側面からの考察が可能なことは、新しい発見でした。
また、フロイトの他の主著にはブロイアーとの共著である「ヒステリー研究」が挙げられますが、アンナ・Oの症例は非常に有名です。ここで、ヒステリーあるいはヒステリックという言葉の女性への結びつけについて指摘がありました。「ヒステリー=女性」とのステレオタイプ的な言葉の使い方には、違和感があるとのことでした。
人は自らの理解できない現象には名前をつけ、それによって管理をし、コントロールし、理解をした気になろうとする心理があります。ただ、現象の複雑な背景を読み解いていけば、安易な言葉や概念というものの、ある種の「意味のなさ」に突き当たります。そこにこそ学問的探求の真理があると思うのですが、それは長い時間のかかることで、映画や10分の動画ですら倍速で見てしまう現代では、そのような行為はどこまで可能なのか、心配なところです。
また、キリスト教に話しを戻すと、神父による性虐待は国際的な問題でもあり、アメリカやフランスでは一般的な問題として議論されているものの、日本においては、先ほどのヒステリー同様、性被害は女性が受けるものとの刷り込みもあり、男性の性虐待についてはあまり意識をされていないようです。
今回も非常に多岐にわたる話しができ、とても楽しい時間でした。