「『こころ』の本質とは何か 統合失調症・自閉症・不登校の不思議」滝川一廣


精神疾患というと、イコール統合失調症というほど統合失調症はメジャーな疾患である。
……そんな風に思ったのは本書を読んでからだったのだけれど、精神疾患のみならず、私たちは人間がそもそもどのような存在であるのかをあまり知らない。「人間」としての私たちの側面とはあまりにも卑近な面であるため、このことの理解は言葉よりも難しい意味を持っている。
その難しさは、私たちが「こころ」と呼ぶ部分に由来するとも言える。本書はこころの問題としても扱われる統合失調症、自閉症、不登校に焦点を当てて考察を進めていく。


統合失調症は精神疾患の一つで、特に若年層においてよく見られる疾患である。日本は世界的に見て精神病床の数が突出して多いが、その理由は統合失調症の診断数の多さに由来するとも指摘されている。滝川は統合失調症について、とても面白い独自の見方をしている。統合失調症は幻覚や妄想を伴う疾患で、薬物療法によって治癒を目指すものだ。
まず第一の滝川の見方は、その妄想や幻覚が全て苦しいものではなく、中には楽しいものや本人を支えるようなものであるかもしれない統合失調症の患者もいるのではないか、というものだ。
第二に統合失調症の幻覚や妄想は辛いものであるが、それでもないよりはマシなくらいこの疾患の本態は辛く苦しいものかもしれない、という可能性である。
第三に、精神障害とは人間の心のはたらきが普遍的に孕んでいるものが、先鋭化して失調形態として現れる可能性があり、統合失調症の幻覚妄想に伴う怯えや恐怖は、私たちの心の奥底に潜む恐怖などが強い形で表現されざるを得なくなったのではないか、という可能性だ。
これらは滝川独自の考察であり、エビデンスの伴うものではないが、なかなか面白いものだと思う。滝川は、従来の薬物中心の精神療法の非人間さに疑義を唱えて、「人間学的精神病理学」という言葉を使う。それは疾患として統合失調症を捉えるのではなく、広く人間のこころの反応として精神疾患を捉える試みである。その意味で、人間が本来取り得る思考の癖、習慣や習性などに焦点を当てていく。そこから精神疾患の諸症状がどのような意味を持って私たちに迫ってくるのかを再認識をするのである。
滝川は、人間のこころはできるだけ「意味や関係」を見出そうとする働きがあり、それは裏返せば私たちが無意味や偶然さに耐えられない存在であることと表裏であると指摘する。人間は意味と関係という枠組みを用いて外界と内界を統合的に秩序づけて捉え、それによって社会的に生きている存在である。
この意味で、精神発達とはこの認識の修練であるとも言える。だが統合失調症の急性期はこの認識が揺らぐ不安定な時期である。通常共有されている意味や関係の枠組みが解体に瀕して揺らいでいく現象である。
こうした揺らぎがもたらされた要因を、単なる疾患のみに焦点を当てるのではなく社会的文脈の中で捉えることの重要性を滝川は説く。同じように「障害」という概念についても、現代であるからこそ「障害」となるのではないか、と指摘する。これは自閉症に対する指摘であるが、現代においてなによりも重視されるコミュニケーション能力や社会性といったものについて、以前はそれほど重視をされなかった要素である。職人の多かった時代は、ものを作れるかどうかが何よりも重要な要素であり、社会性というものは特に求められなかった。だが、産業構造の変化や社会の高度化、学校教育の整備によってコミュニケーション能力や社会性は、社会の中で生きていくためには必須の要素になったのだ。ゆえに自閉症という内にこもり、時に「空気の読めない」行動を伴う症状は、障害として分類されるに至ったのだ。
滝川は、発達のスペクトルから眺めれば、アスペルガー症候群は軽い関係の遅れだけで大きなハンディはない、と指摘する。ではなぜ、この小さな差というものが大きな困難や、深い苦しみを生み出すのか?それは現代社会の共有する関係性や社会性、共同性が複雑で高度なものになったことに由来するのだ。ここに、人間の共同性が個体にもたらす矛盾や負荷に障害の根元を見ようとした、反精神医学の視点があるのだ。
現代社会では対人サービスの増加に伴い、きめ細かなコミュニケーションが当然のように求められる。そこに適応できないわずかな遅れすらも失調・問題性として扱われる。これが現在アスペルガー症候群の社会的増加につながっているのではないか、と滝川は指摘する。
精神疾患を医学上の事象として見るだけでは不十分で、社会的な文脈の中で再定義することがやはり重要な意味を持つ。これは社会に対する反証的な問いかけにもなるのだ。私たちが何を正常とし、異常とするのかというのは、簡単に覆るものである。病の概念は時代を跨いで統一的なものではなく、ある時代には望ましくないとされていたものが、次の時代には問題とされない場合もある。それは同性愛が以前は精神疾患とされていた歴史に明白に現れている。また障害という概念自体も、現代では疾患としての障害という側面よりも、風変わりな個人の個性に近い捉え方に変化をしている。
最後に不登校であるが、これも社会的な視点から捉えると単なる児童の問題以上のものが見えてくる。まず滝川は、国立大学法人ですらビジネス化せざるを得ない現在の教育界について苦言を呈した上で、「文化の奥行きとは余裕によって、つまり一見したところの無用性の蓄積によって培われているところが大ですから、そうしたものの生きる場がなくなれば、文化も次第に厚みと底力を失ってゆかないでしょうか」と指摘する。もともと教育に相当するギリシャ語の原義は「余暇・余剰」に相当するものであったことを考えれば、大学などの高等教育機関に見られる一見した無用さは、やはり重要なのである。第一の指摘として、社会それ自体がこうした学問の余剰さや非生産性というものに対して、資本主義経済を導入したことの弊害が顕在化してきている実態がある。環境として、私たちの文化とは次第に脆弱になっていくようである。
また視点を子供たち自身に向ければ、学校や学業自体が一生懸命に励む場ではなくなり、さらに言えば学校内で培われる能力は、一般社会で求められるスキルと乖離している。学校自体が、将来の夢などを引き寄せる場ではなくなってしまった。こうした学校の基本的要素である学業への引き寄せが低下した中において、学校内集団では共同意識を醸成する場であるよりも、対人関係での葛藤が意識されやすい場となったのだ。また大人の側も子どもたちに学校という場で何を得させたいのか、というそもそもの社会的合意すら覚束ない。学問そのものへの魅力や、引き寄せる力、また子どもたちを学校へと促す社会的力が私たちから失われつつあるということだ。これこそが現代の不登校の本質である、と滝川は指摘する。


統合失調症も、自閉症も、不登校もこれまではごく個人的で閉鎖的な問題とされてきた。だが精神疾患の増加や不登校などの問題行動の増加は、単なる個人の問題だけでは済まされないほど深刻なものになってきている。そこで視点を変えると、そうした諸問題を抱え込んでいる社会そのものには、なんの問題もないのだろうか?という視点である。精神疾患で言えば、滝川が言うような人間学的精神病理学に行き着く。
問題となっている主体はやはり人間であり、こころという領域である。従来ではこの点が軽視され、疾患や問題行動のみに焦点を当てる傾向があったが、もはやそうした視点のみでは捉えきれないほど社会問題として大きな存在になっている。そこで導入された視点というものが人間学的なものであり、社会的な視点である。
私たちはさまざまな概念によって存在を定義づけられているが、それは一体誰のためになされたものなのか、という問いかけなしに真に私たちの存在を知ることはできない。高度に産業社会化した現代は、ともすれば人間性を失いがちであり、むしろ機械的に生きること自体が奨励されている気配すらある。それが過労死やブラック企業に代表されるような社会環境や意識ではないのか。
精神疾患とは、ある意味でこうした社会環境への心理的防衛反応とも見れなくはない。不登校もまた同じである。学校というものが夢というものを引き寄せる場ではなくなった、と滝川は指摘するが、それは社会という場も全く同じである。家庭から教育力が失われた反動で、学校にも家庭的な機能が求められるようになって久しいのと同じように、本来私たちの心が健全に持っていた「なにか」が失われて久しい。その歪みが社会問題となって、今一度私たち自身へと降りかかってきているのではないか。
何事にも無気力で、熱意が持てず、夢も目標もなくただ日々をやり過ごすだけの覇気のない現代の生は、そのまま衰えゆくかつての経済大国としてのニッポンと奇妙に重なっていく。

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